星田ぶらり散歩

テキスト ボックス: •星田駅周辺を歩く

星田駅の東側は、昔の地名(小字名)で六路といった。昔の

徒歩交通時代には国道的な役割をしていた東高野街道があり、また一里塚があって、そこから各方面に道が通じていて、当時の徒歩交通の中心であったことからの命名であろう。明治三十一年関西鉄道(JRの前身)が開通し、星田駅ができたが、以来鉄道を通じての交通の拠点になった。また昭和七年に府道枚方・富田林・泉佐野線(以下「府道」という。)の開通によって東高野街道は、主役の座を譲るだけでなく、その後の自動車交通の発達によって、道幅が狭いため、抜け道の座になり下がった。東高野街道は、弘仁天皇が弘仁一四年(八一三年)京都の東寺を空海に下賜され、真言宗の根本道場となったが、ここと高野山を結ぶ道として、大師信仰の高まりなどによって、往来が高まって、徒歩交通の幹線道路となった道である。江戸から明治にかけては、唯一の県道(堺県。 明治一四年から大阪府道)であり、大阪府では、当時の国道二九号線,能勢街道とともに、三本の一等縦貫線の一つにあげていた幹線である。しかしこの道は、明治三一年の関西鉄道の開通を待たずして、明治の初期からすたれだしたという記述がある(西井長和氏)。明治五~六年頃から神戸京都などの東海道本線の部分開通などが影響したことも考えられるが、東高野街道沿道では、旅籠や物品販売など農業以外の仕事が寄与し、栄えた というこ

とも伝えられている。現在東高野街道として唯一町並みが残っている大谷地区(星田六丁目) の古老の話では、この地区は、古来からの農家が多く、そのような伝承はないようであるが、天保一四年星田村絵図では大谷地区の東側の星田駅寄りの東高野街道沿いの地名が南側と北側とも「五のさ」と同名になっているところがある。このあたりに旅籠など当時の沿道産業があったのではなかろうか。このあたりは、星田駅の開業(明治三一年)や旭高等尋常小学校の開校(明治二六年)などで再開発が急であったことが考えられる。地詰帳や絵図などで小字名で五のさ、こうのさ、こうのたなどの 同音,擬音の地名が多いが、「五の」あるいは「こうの」は、東高野街道 を意味し、地名的に特別の付加価値をもっていたのではないかと考えられる。

東高野街道の大谷地区の西側は、府道の開通によって分断され、そこから西は農道あるいは畦道と区別がつかない状態で街道としての形はなくなり、現在の星田ゴルフ練習場の南に残っている長谷川沿いの大谷南のお大師さんがあるが、かっては大谷地区農民がお世話をしていたとされるが、現在は、府道の西には旧大谷地区の住まいと思われる住宅は一軒もなく、このお大師さんは、打上地区(現寝屋川市)の信者がお世話をしておられるということである。東高野街道は、江戸時代の道幅六尺から明治時代になって、通路幅が八尺(三,五m)に嵩上げされているが、星田駅から東も車一台がやっと通れる程度の舗装された農道で、農地の中を新関西製鉄の方に向かい、星田共同墓地まで通じているが、新関西製鉄(当時は臨港製鉄)の建設で一部はその敷地になっている。

六路の地蔵

この地蔵は、度重なる河川改修で土中に埋められ長い間不運な運命を過ごされてきた。戦後見つかって掘り起こされ、地蔵さんの川とも言われた可所川に戻られたが。可所川は、最近下流の農地の減少によって水量が落ち、溝ふうの川になり、ネットに囲まれ目立たなく,訪れる人もなく二人さびしく(二人地蔵)過ごしておられる。

旧星田駅と下段左は旧星田駅の待合所の椅子の柱

中段の写真 の柱は、大正三年の大正天皇行幸に際して急拠駅舎の改築で取り付けられた待合室の化粧柱である。下は行幸記念碑で大正天皇はここから交野が原一帯で行われた陸軍特別大演習を観覧された。

旭尋常高等小学校

関西

鉄道の開通星田駅の開業(明治三一年)に前後して東高野街道沿いにあった旭尋常高等小学校(明治二六年~四〇年)。左は、星田駅から大谷橋に向かう道にあった標識

六路の交差点

昭和七年の府道の開通に続き昭和三九年一二月一二日午前一〇時交野市内で初めての交通信号が点灯して自動車交通時代に突入。以来交通の流れが変わりだした。

大谷地区(星田六丁目)、を歩く

大谷地区は、中央を昔の東高野街道が走っていて道の北側は、現在の寝屋川市寝屋、南側は交野市星田で現在でも両市の境界になる道である。明治維新後東高野街道だけが県道(堺県道明治一四年から大阪府道)で他の道は、すべて

里道であった。徒歩交通の時代には人の流れは多かったであろう。

大谷北の大師堂

石造

りの大谷北の大師堂。星田の大師堂は,ほかは全て木づくりの祠であるが、大谷の北と南の大師堂のみ石祠である。祠の右側に寛政二年(一七九〇年)と書かれている。

地蔵堂

この地蔵堂には立派な厨子に地蔵尊を祀り釈迦涅槃図がかけられている。半鐘には弘化三年(一八四六年)と三八件の屋 号が刻まれている。愛宕灯籠には、延宝八年(一六八〇年)と刻まれていて、長年火の用心をよびかけてきた。堂内には江戸初期の地蔵菩薩立像をはじめ十一体の彫刻や絵画が旅人の安全と児童や安産の守護神として祀られてきた。

江戸相撲大井川万吉の碑

大井川万吉氏は、大谷地区出身で江戸相撲の力士に出世した。京都、八幡への道路標識を兼ねている

交野で最初の郵便局

明治9年星田郵便局がこの屋敷の門長屋で郵便取扱業務を開始した。交野郵便局の開設は明治四一年

大谷南の大師堂

府道の開通によって大谷の村落と分断され、現在では田圃の中でぽつんと建っている。今日では、寝屋川市打上の個人的信者が主にお世話されているという。昔はこのあたりまで大谷の村落が続いていたのであろう。

星田名所記の大谷南の大師堂

ここは、「治右衛門広」という地名がついていて、ここから西は、山の根の道と東高野街道が合流し打上方向に向かう地点である。

現在熊取町にある京大の原子力研究施設の建設の際、その建設予定地の候補になったこともあり、また避病舎(伝染病舎)が建っていたこともある。

元禄絵地図が描く松覚庵

星田名所記( などころき)について

文化・文政(一八〇四~一八二九年)頃描かれた手書きの図画を掲載している。写真資料がない時代で貴重な資料である。

六路の交差点から西の村の本通を歩く

西の村の本通とは、六路の交差点から星田小学校の北側を通って慈光寺のところで中川道に通ずる昔の星田の旧村落を南北に縦断する唯一の道である。二~三メートル内外の細い道がところどころでくねっていて先の見通しが悪く、四つ辻がなく、いびつの三辻あるいは四辻になっていて、敵の進入に備えて、迷路のような町づくりがおこなわれたと思われる道である。

半尺口の大師堂

この大師堂は、もともと東高野街道の一里塚にあったものでここに移された。

畑堂(はたんど)

薬師寺

浄土宗、本尊の薬師如来立像は、室町時代作のヒノキの寄木 造り。像高は158センチで、交野市指定 文化財。

千体仏 室町時代のヒノキ造りで  地蔵菩薩坐像、薬師如来立像等671体が5個の木箱に納められている。村人が疫病が流行らないよう浄財を出し合つて仏師に作らせ奉納したもので、交野市指定文化財。境内に松香石の古式地蔵がある。

薬師寺は無住寺で保存会が管理しているが本尊の薬師如来(左)千体仏(中央)の指定文化財は毎年文化 の日に一般公開されている。下図の三地蔵の真ん中が古式地蔵である。

薬師寺の大師堂

星田には町内で管理する大師堂は一五祠があるがそのうちお寺に設置されている祠の一つ

畑堂にあった東の壇尻蔵

星田神社の山車(だし) 現在は、東西二基の山車が御旅所に収められているが昔は、後述の星田村大絵図で描かれているが、東の山車は、畑堂の薬師寺 の近くに壇尻庫があって、西の山車は、堂坂に壇尻庫があって、中川をはさんで東西の住民が競いあったとされている。

まちかどの仏たち

 

 

各地の大師堂や地蔵さん、野仏、


中川通りを歩く


現在の中川は、河川の管渠化が進み、かなりの部分が埋め立てられて道路になっている。昔は五つの橋がかかっているのみであった。星田名所記には、慈光寺の北側のはすかい橋と慈光寺の南側の除夜の四辻橋の様子が描かれている。はすかい橋には塔のようなものが描かれているが高札場である。このあたりは、当時の政りごとの中心であっ

た。中川の上流は、市道星田妙見東線と交差するところで紐谷川になるが、その最後の橋を寺前橋といった。そこに円通院という大きな浄土宗のお寺がたっていたための命名であるが、明治の始めの廃仏毀釈で廃寺となった。下流側へは、善林寺の南に中小路橋と野辺橋大師堂から光林寺に向かう道の野辺橋が続いていた。

善林寺

尊は、阿弥陀如来立像創建は.

一五二七年。現在の本堂は、天保時代に枚方釈尊寺から移築したもの。

慈光寺

光明寺の末寺。本尊は、阿弥陀如来。創建は、不明であるが、ここにある十三石仏は、慶長十二年(一六〇七年)のもの

十三石仏

初7日から33回忌まで13回の仏事の仏と菩薩を刻んだもの。生駒山系に集中し,府下で二九しかなく、交野市では、ここのみ。

慈光寺の大師堂

慈光寺門前に並ぶ伏拝み

上から柳谷さん,二月堂、大峰山

星田の大師堂と大師講

星田には二四の町会があって、 野辺町 東辻屋町 上口町 札の町 東小北町 東畑所、乾町、半尺口 西中小路町 大谷北 大谷南 慈光寺、光明寺 星田寺の町内が管理する十五の祠があった。四月二一日には、大師講が務められた。この日は町内各家から二~三合の米を集めてつくたん(大きなおにぎりにきなこをまぶ したもの)を参拝者

にふるまった。

星田名所記が描く慈光寺内の金刀比羅宮

明治はじめの廃仏毀釈によって星田神社の外宮に移されたが星田名所記が描いている慈光寺の絵図の鳥居と金刀比羅宮

門の木(森の木)地蔵

精霊送りや精霊迎え仏事のお供えや廃棄物の処理など特別の役割を持っていたが公害問題などで役目終了。五体の仏が一体になった。

星田の石仏

星田には石仏の数は、四百体を数え、交野では最も多い。石仏には、右手に錫杖、左手に宝珠をもつ地蔵菩薩と右手を上、左手を下にしている阿弥陀菩薩の二種類があり、また地蔵菩薩の中で右手に錫杖を持たない古い形式の「古式地蔵」がある。なお、交野では、ほとんどが阿弥陀菩薩で、地蔵菩薩は、少ない。

高岡山・星田大池・みどり池を歩く

高岡(三太郎)稲荷

昔は,講に入っている家は五〇軒くらいあり、一四~五軒で組をつくっていた。二月の初午の日には、みどり池は。赤いのぼりが立並び飯の「もっそ」をつくって草原などをめぐっていた。講中の者は︑当番の人たちが準備をし、赤飯の「もっそ」や味噌汁で会食した。講では講田も持っていた。

 星田大池

星田大池は︑星田新池や大谷新池が明治後期から大正の初期に作られたのに対してこの池は古く徳川三代将軍家光の時代の寛永一四年︵一六三七年︶に改修されたことが村の記録に残っていて造られたのはそれよりも古いことになる。.星田の語源は、干し田であり、利水が困難なため平安時代には牧場に使われていたとされるが︑この池は、高岡山、楯石、梶が坂の高度六~七〇mの山中を掘削して造られた池で現在のJR星田駅周辺は五〇m以上の高さがあるが、この付近の高度地区を含めて給水範囲を高めて、星田村の穀倉地帯づくりに役立った.。池の大きさは最大時には六.三㌶あり、これは、甲子園球場の一.五倍の大きさであり、交野三中の校舎建設のため三.九㌶になったが︑それでも交野では一番大きな池である︒

みどり(見取)池

みどり池は、何の役割をしていたのか、工事中の土砂運搬のためなど色々議論のあると

ころであるが、明治の実測地図の地形からは、元禄絵図では傍示川は、高岡山の東側のいはゆる古代の傍示川と云われるところを流れているが、その時の傍示川跡で、その当時はこの池は、地獄谷川と拂底川と直接つながっていて(きつね川)降雨時の水量が多いときには放流河川として傍示川の下流に流し、晴天時など水量が少ないときには星田大池で貯留していたのであろう。

高岡山

星田大池の築造からはじまり、住宅、墓地、幼稚園等の建設のため小さくなり、この小さな森の中には高岡(三太郎)稲荷の祠があってそのための丘あるいは森のようになってしまった︒

星田公園(新宮山)を歩く

星田公園のある新宮山は、交野や枚方の茄子作など一帯が平安時代から岩清水 八幡宮の荘園であったが鎌倉時代になり、荘園の鎮守のため、石清水八幡宮から 分霊して新宮山八幡宮が設けられたのが,始まりである。星田公園は南北二段になっているが、南の高いところに八幡宮が北側の低いところに神宮寺である愛染律院がたっていた。両社寺は、明治はじめに行われた廃仏毀釈 によって廃宮、廃寺となった。

塔には一三〇九年宝篋院塔には11615年と刻まれている

星田名所記が描く新宮山八幡宮と徳川家康の旗架け松

下は愛染律院

妙音池と弁天島

妙音池は、もともと八幡宮の放生池として造られたもので、星田では最も古い池であるとされ、その名前は八幡宮の名鐘の響きからきているといわれている。弁天島の由来は、江戸のはじめに長浜から星田に娘の病を治してくれたお礼に竹生島に似せた小島を造ったのが始まりで星田会館建設のため現在のように建て替えられた。昔の妙音池と星田名所記には祠が二つある昔の姿が描かれている

古道「山の根の道」を歩く

山根道はけもの道を起源とし山の裾を這うように続く広域交通路とされ、また石器時代のサヌカイトの原石 の産生地である二上山への交易路ともいはれ、古くからの広域路であったこの古道は、東高野街道と並んで早くから発達した道であり、道路に沿って歴史遺産が多く、また、徒歩交通時代にまちがすでにできあがっていたので、いろいろな特

色を残している。ここでは、 できるだけ古い時代にタイムスリップする観点から取り上げてみる。西側は寝屋川市打上地区から東側は私市橋まで続く星田を縦断する長い道である。現在のJR東寝屋川駅付近から東高野街道と山根道は合体していたが長尾川沿いの大谷南の大師堂がある治右衛門広で東高野街道は北寄りの道に、山根道は東に直 進し、別々のルートを辿ることにな る。西から大谷南の大師堂から市道星田西線までで、この区間は、農道で近くの耕作地の関係者以外は通らない道である。弘化二年(一八四五年)記載があるほろ山の標識がある。西向きは大坂道と表示されていて、東向きは、 妙見道と書かれている。外には古来からの石橋、ほろ山の湧き水 がある。次の区間は傍示川を越えて高岡山の麓交野三中の裏門 から梶が坂の登り口までの区間である。

旧石器時代遺跡付近

高岡山から旧石器時代の遺跡が出た山根道NTTの社宅 付近を見降ろした新旧の光 景である。

梶ヶ坂の道

上二枚は狸藪と呼ばれていた頃の写真である。幅一m内外の古道が残っている。

今池付近の山根道を歩く

の写真は、旭幼児園から市道妙見東線と田圃のむこう に山根道を見たところである。また道の南側は江戸期から現在の全現堂池を含めて三つの池が並んでいて、一番北側は今池といったが、昭和三〇年代に埋め立てられて住宅になっている。中央の写真は市道と山根道の交点から西向きの光景で、道沿いはすでに住居建物が建っている。下の写真は、市道から中川に向かって短いショートカット道として残っている道であるが、この道の先に寺前橋が架かっていて、橋のたもとに廃仏毀釈でなくなった円通院があった。

星田神社から妙見口へと山の根道を歩く

垣内の道を歩く

山根道に沿って上垣内、垣内、外殿垣内などの地名が続いている。垣内とは開墾する場合にする縄張りや垣を結って囲うことである。いわば新しい開墾地で田畠をつくることである。その内屋敷もそこに移して住むようになるが、屋敷も移すと垣内とよばれることになり、従って比較的新しく開発されたところである。道の北側は古い居住区で、地図を塗りつぶしてあるところが明治初期の絵図が描いている居住地帯である。地名は、西村、乾(いぬい)村、北村、艮(うしとら)村、東村、坤(ひつじさる)村の各村で方位の名前がついていた。南村と辰巳(たつみ)村がなかったが、南村にあたるところは、星田神社や星田寺、新宮山八幡宮などで居住地域でなかったので向井といった。お向かいさんからきたのであろう。しかし明治初期の別項の星田村実測絵図(堺県管下河内国第三大区九番組星田邨萬分之六図)では、星田神社、星田寺などは、向井から南邨に変わり、巽村が新たにできていて、少し住宅地化が進んでいる。小字地名は昭和二十年過ぎ頃まで村役場で 使われていたとされるが、実務的には、上村、堂坂村,辻屋村,小北村、中村、西村、下村が使われた、

 星田神社の南側から妙見口に向かう道は、山根道で、道に沿って水路が流れていて、この水路は垣内川とも呼ばれている。

今池地蔵中川の上流は紐谷川といって現在の市道星田妙見東線に沿った水路のことであ

るが、昔は上の池、中の池(浅間堂の池)、今池と池が三つ並んでいたが今池は昭和の時代に埋め立てられて住宅になったが今池地蔵は掘削工事により掘り出されたもので元の位置に祀られている。

まちかどの仏たち

上場地蔵(上)と

だんと墓(中央)

上口町大師堂下右

星田神社

本殿(左)と社務所(下)

平安時代にはあったとされる。

本殿は、住吉四神である。昔星田、私市、田原、南田原地区の氏神は、岩船神社で,四者で運営していたが、宝永年間(一七〇四年)に分霊して各村で祀るようになったとされる。

古宮

古宮は、歴史的には古く長治二年( 一一〇五年)には存在していたとされ、饒速日命、素戔鳴命、仁徳天皇を祀っている。廃仏稀釈の際新宮山にあった八幡宮と慈光寺にあった琴平宮も祀られている

星田寺

創建は河内長野の金剛寺の記録により平安時代にはあったとされる。下写真は、左が本

堂右は十一面観音堂。十一面観音は交野市指定文化財

光明寺の本堂と薬師堂

創建は豊臣時代以前とされる。、薬師如来立像は平安前期の作で交野市内では最も古い

ものであるが、頭部は後に修理されている。

星田神社の祭と地車(だんじり)・宮座

星田には、東の地車(だんじり)と西の地車がある。屋根や飾りつけなど取り外す精巧な構造になっ

ている。星田神社の秋祭りは、十月十六日(宵宮)、十七日(本祭)である。お旅所は、もともと神様が遊びに行かれるところであり、芸などをして、神様にお見せするなどをするところであった。地車が妙見川原まで引き出されたのは明治三五年が最後である。豊臣、徳川の頃には、村中がそれぞれ二つの勢力に別れた時代もあったという。 若中(今の青年会)の組織がおやっさんを頂点に周施方、五人若衆の代表、一般(平)と組織化されていた。大正八年に青年会ができた。

西の地車は仏式で、中間に区切りがなく、蓮華の金模様がある。(区切りの跡形は、残っている。) 東の地車は、神式である。東と西は、時代によっては、競って小道具を整備することに熱中した。このため、祭りの前には、東は、西からもらった嫁を、西は、東からもらった嫁をそれ

ぞれ里に帰し、それぞれの計画が漏れないように警戒した時もある。これは明治二〇年頃の話である。昔は、西の地車庫は、はたんどにあり、東は、星田神社の北側の鳥居のある入口の西側の地車庫と別々に保管していた。現在は、御旅所に東西二台の地車を収納している。 村の集落全体の総寄合といえば、氏神の祭礼である、神の祭ごとと村の政りごとは、同音でどちらもその土地の有力者や神主が祭礼を取り仕切り、また祭礼の場に参列し、神前でお供えものを分けたり、お囃子などの出し物を観覧したりするがこれには歴代重ねられてきたルールがある。

各宮座の位置が神殿に近いほど格が上で、各宮座の中でも座る場所に順位がある。宮座加入は、資格要件があって、だれでも加入できる訳ではない。宮座に加入していないと神輿がかつげないなど当時は階層・差別社会の色彩が強かった。

大阪夏の陣で徳川家康が宿陣した平井家

元和元年(一六一五年)五月五日大阪城攻めのため、徳川家康は、午前九時京都を出発し、午後三時星田の里正(村の長)平井三郎右衛門清貞宅に宿陣した。一丁四方ある屋敷内の北の方にある建物で、五間四方を高く上げた奥書院を家康のために用意した。平井家では、 屋敷を囲む堀でとれた鯉を料理して差しだした。二代将軍秀忠は、先に四条畷市岡山で陣を構えていたが、 家康が到着するやいなや秀忠、本多正信、藤堂高虎、 土井利勝、安藤重信と軍略会議を行った。東軍十六万 人のうち、家康の手兵一万五〇〇〇人は、星田から打上に野営したが、その夜は、豪雨があり、夜襲もあろうかと警戒した。家康の旗印の白旗は、新宮山上にあった松に掲げられた。翌日大坂方が八尾、久宝

寺で討って出たので、午前一〇時に出陣していった。

家康行営の記念碑と建造物

星田名所記に描かれ いる文化三年(一八〇六年)に建てられた 公営の記念碑と家康の御座所であった奥書院の段の間を模して造られた記念の建造物。下は現存する記念碑。

小字地名のとうとのかい(外殿垣内)は徳川家康宿陣の平井家の屋敷地からきた地名で、その面積は、一丁四方あったとされている。文化五年の星田村地詰帳では、小字とうとのかいとから市橋藩領地として田で二石近く、八幡藩の領地として田、畠の割合が不明であるが十一石近くの年貢をあげている。本地詰帳では、平均的に田で反あたり、一.三石、畠で一石の年貢をあげているので、面積に換算すると一〇数反(一㌶余り )であり、この面積はほぼ一丁四方になる。従って文化三年の星田名所記に描かれている家康の御座所の奥書院の建造物や現存する記念碑がつくられた後文化五年(一八〇八年)には、平井家の屋敷地は、八幡藩の領地として耕地に転用されたと考えられるというよりか、耕地転用するために、記念碑などが造られたと考えた方がよいかも知れない。天保一四年星田村絵図(一八三二年)では、八幡藩の領地を現在の星田駅周辺と中川沿いに描かれているが、もともと八幡藩の領地は、豊臣秀吉の太閤検地以来、印字山や坊龍などにあったのがこのとき、領地替えがあったのではなかろうか。

宿陣の時、家康から拝領を受けたとされる火入れ、湯飲みと絵皿

光林寺周辺千原・乾の里を歩く

星田名所記の光林寺の 図画に乾の里・千原・野辺ノ里の近隣集落の地名を記載している。里は、奈良時代大化の改新以後に作られた行政区画に用いられたもので古い集落であることの証左で あるとされている。光林寺は八丁三所の伝説の一つの石を祀っていて旱魃の折にはここでお 星さまをまつって雨ごい行事をするのが慣例となっていた。

光林寺   西山浄土宗。創建は桃山時代かそれ以前。本尊は、釈迦如来でその西側の釈

迦三尊像は、廃寺となった新宮山愛染律院のもの。下の写真は、石をまつっている。

雨乞い行事

 星の聖地には、よく似た名前がついている。 小松神社(妙見さん)は,龍降院、光林寺は、龍降寺。星の森は、龍泉寺という。 雨降らせ給え竜王大明神、水沸かせ給え、竜王大明神。 稲枯らせなむ竜王大明神。明治の始め頃は「なむてん踊り」を繰り返していた三日夜通しの雨乞い行事であった。時には音頭とりをやとったこともある。地主から金がでると踊り子に5~6人加わった。踊り子は、小さな鐘と拍子木をたたいて踊った。踊り子は、京都の桂女(かつらめ)か法隆寺付近のさる女(め)がきた。衣装は、上は、墨染めで腰で短くなったもので、腰下はねずみ色の裾が出ていた。-肩は、襷がけで、袖口をくりあげて踊りやすくしていた。雨乞いの場所は、光林寺であった。

藤ヶ尾とその周辺を歩く

星田中川の東と西

左の図は奈良時代の大化の改新の際班田収受をおこなうため行われた条理制の区画である。全国で  河川や池の近くで稲作に便利なところで行なわれたものである。中

川の東部地区は天野川に近く、特に中川と妙見川が合流する付近は、水田耕作にふさわしい湿地帯を形成していたから坊領、中水道、森の木などの弥生遺跡が発掘されている。なお、中川の西側は、ほしだ牧として牧場になっているが、新宮山下、星の森、大谷新池などでも湧き水を活用するなど水田遺跡がでている。

印字山(妙見坂一、二丁目。ねんじやま)

もともと平安時代から石清水八幡宮の御料地に含まれていたが、徳川時代にも家康からこれを承認され与えられた八石七斗七升の御朱印状

星田名所記が描いていた天井川の妙見川と藤の木と地蔵さん

名所記では天井川の妙見川と藤の木の下に鎮座する藤ヶ尾地蔵を描いていた。昭和40年後半の妙見口交差点付近の平面交差完成後は、現在のように鎮座しておられる。

天井川の妙見川

流出土砂で積み上げられた天井川とその川底に掘られた妙見東付近のトンネル

星田妙見。妙見川周辺を歩く

降星伝説と八丁三所

平安朝の嵯峨天皇の弘仁年間(八一〇~八二四)に、弘法大師空海が私市の観音寺で一つの法を修められた。すると、その法力によって、その夜、山の手に光明が輝いたので、夜明けに山に登り、獅子窟寺山の岩屋に入って秘法を唱なえると、七曜の星が降り、それが三つに分かれて落ちたという。この霊岩に七曜星の影向(ようごう=神や仏の姿を現すと)せられるのを拝まされて妙見宮を七曜星(北斗七星)をまつる霊場とされたと伝えられている。この星が降ったところは、星田妙見、光林寺と星の森であり、八丁三所とは、この三か所は、丁度三角形の配置にあり、それぞれの距離が八丁(九〇〇m)であるという。

星田妙見(小松神社)

祭神は、神道では、天之御神、仏教からは妙見大菩薩、道教からは、太上神仙鎮宅霊符神としてあがめられ、わが国において真神道、仏教、道教が融合した珍しい霊場であ

る。ご神体は、二つの大岩で、この岩は、影向石として、神や仏がこの岩に姿を表しているということである。

星田名所記が描く妙見山

妙見山古墳跡

妙見山から東に延びていた峯続きの最高地点(一六二m) で昭和四三年妙見東の住宅開発中に古墳遺跡が発見された。四世紀中ごろの造営で天野川、磐船街道を支配していた交野物部氏の首長を葬ったものであろうと推定されている。跡地は、妙見東の中央公園になっているが、跡地に造られている模擬古墳風な小山と滑り台。

藤が尾、妙見坂の住宅開発と天井川の妙見川の平面化

昭和四〇年代前半の頃藤が尾地区における藤が尾団地の建設と当時天井川で高い堤防を作っていた妙見川の平面化あるいは低堤防化工事をしている時のワイド写 真で撮影したものである。濁 池、印字山地区(現妙見坂二~三丁目)からワイドに 撮影したもので、松下電産(当時)の社宅が建設中である。当時の星田の集落は現在の妙見口以北以西の古くからの集落にほぼ限定されている。現在の妙 見口の交差点から道が三方向に伸びていて、これは妙見川に沿った南北の道に妙見口から東側に山根道(私市道)が天ノ川の私市橋に通じている道であって、妙見口から東側は、垣内川に沿って星田神社に向かう山根道は、住宅の陰になっていて、現在の小松寺の北側の星田南線の開通は平成以後のかなり遅れて以降である。濁池、印字山地区は小高い山になっていて、藤が多く咲いていてその麓の現在の藤が尾団地の地区は藤(富士)が尾と呼ばれていた。またこの印字山の地名の語源は、豊臣秀吉が文禄三年の太閤検地の際、石清水八幡宮がかって星田ほか私市部(きさいべ)一帯を荘園としていたことから、八幡藩に対して百二十石の領地を与え、その時  朱印状を与えていた土地であり、徳川政権に変ってもそのまま歴代承認されてきたことが、印字山の地名の語源とされている。この地区は印字山の地名  からしてもあるいは実態からしても名実ともに山地あるいは丘陵地であり、棚田の耕作地であったのだろう。

名所記が描く妙見川

享和三年(一八〇三年)星田村明細書では妙見川の川幅は一二間(二一ⅿ)であった。当時の妙見川沿いの花見の様子を描いているのであろう。その後土砂の堆積が進み、天井川になっていったが、川の流れを後述するように、中川の上流の紐谷川に変えていたのであろう。

石橋と妙見川

妙見山の南の鳥居から妙見東の住宅にかけては、小字地名で石橋と呼ばれていた。この地名の由来は、妙見川に、一間四方の石橋がかかっていたことからこのような地名がついていた。その当時の川幅は、一間(三、三m)であったが、妙見川の降雨時以外の流水は紐谷川に流し、中川の源流となっていた。最近の大雨によって石橋、土手もろとも被害を受けたため、現在は一〇m近くの川幅に復活している。

石橋の北にある妙見川から紐谷川に流路をかえる樋と放流水路

 

妙見川の水は、石橋の時代から降雨時など河川水量が多いときは、そのまま下流に流し天ノ川に放流していたが、晴天時など通常の水量の時には流れを紐谷川に換えて、中川水系として水田灌漑用水として利用するシステムができあがっており、最近の水害被害後の妙見川の改修後も写真の取水口が造られている。取水口で捉えた水は暗渠配管で下流の流水勾配ができるところまで運び、そこから自然流によって紐谷川に流れるシステムが作られている。

平野の梅林

紐谷川から妙見川の間を平野(小字名)という。妙見川の桜はむかしから有名であるが、星田名所記では平野の梅、すももの名所と描いている

妙見山南の墓地(延命地蔵)と 古代地蔵

徳川家康ひそみの藪

天正10年(1582年)の明智光秀が起こした本能寺の変の時、堺にいた徳川家康は,急遽本国三河に帰るべ く、この竹藪に潜んで星田から選出の2人の農民の道案内で、抜け道を通って無事帰還することができたと伝承されている。

小松寺

法華宗。創建は、宝永元年(1704年)。本尊は、日蓮大菩薩御定の久遠常住輪円具足の南無妙法連華経

光明寺真言墓の鎌倉地蔵

全現堂池

紐谷川は中川の上流で現在では中川道と市道星田妙見東線との交差地点から上流である。現在その上流西側に全現堂池があるが、元禄星田村絵図では、三つの池が並んでいた。上流から上の池、中の池、今池と言い、中の池のことを浅間堂の池とも云って富士浅間大日如来を祀っていた。上の池と中の池の堤防がなくなって現在の全現堂池となり、今池は埋め立てられて住宅地となっている。富士浅間大日如来は、江戸期の延宝五年(一六七七年)修験道の先達の奥田浄安が京都の仏師に造らせた仏像を仲間と一緒に富士山に担いで登り、富士浅間神社で開眼供養を 行ったと伝えられている。現在でも全現堂池畔の収蔵庫の中で祀られている。

星田新池、傍示川周辺を歩く

傍示川

榜示川とは、地獄谷川とぼって川が合流した後の川を榜示川と呼ぶのが正しい定義である。今日、南星台四丁目あたりのバス道に沿った川を榜示川と呼ばれているが、地獄谷川と呼ぶのが正しく、地獄谷という呼び名は、聞こえが悪く、榜示川という名称が生活用語として定着してきたのであろう。しかし、榜示川という名称は、歴史的名称であるので、混乱が起こらないよう整理しておく必要がある。榜示川という名称は、平安期の荘園時代に星田では、石清水八幡宮の荘園であったが、これとは別に中川以西の地域が星田牧であった頃、奈良興福寺別院円成院領として寄進して荘園であったがそのときの荘園の境界として川筋が用いられたので「榜示」という名称がついていたことが傍示川の名称の由来であることと、そのときの傍示川は、現在の星田大池ができている高岡山の東側を流れていて(古代の傍示川)、当時は地獄谷川と榜示川がY字型に合流していたが、元禄時代以降に現在の榜示川は、西周りにつけかえられたものである。(元禄絵図の項参照。)

現在の地獄谷川とぼって川の合流システム

現在の地獄谷川とぼって川の合流については。降雨時や降雨後の山中からの水が大量の時と、晴天、曇天など降雨の影響がなく水量が少ない時に分けて異なり、降雨時等の水量が多いときには両川が合流し、そのまま傍示川に流入して放流されているが、晴天時

など水量が少ない時には、地獄谷川の水は、きんもくせい特養ホーム少し上流にある橋の付近にある取水口で取水された水が、暗渠の配管で、流水勾配がとれるまで下流に流れ、きんもくせい特養施設の建物に沿ってつくられた水路を流れて、ぼって川との合流地点につくられた合流樋で合流し、傍示川に架けられた水路を流れて、星田大池への流水路である細川を流れて星田大池に流入している。

星田新池の築造と旭縄文遺跡と埋蔵物の発掘

星田新池の築造は、明治の末期に、地獄谷川とぼって川の合流地点にあった富士山の型をした二つの旭の山をとり崩し、その土砂を上流に運び,土手の築造に使ったが、その土砂の採取過程で、縄文住居跡遺跡を発見した。東西二〇〇mぐらいの川より二mほど高い場所で一〇数個の竪穴式住居跡で、縄文中期(BC四〇〇〇年)頃のものである。その時木炭に混じって小鳥や獣類の骨が発見された。また同時に中国の二〇〇〇年前の通貨である「貨泉」が貝殻に入って発見された。また、現在の星田新池の対岸の早刈の丸く半島状に突き出たところから素焼きの底の尖った小さな土器に入った数十枚の和同開珎が発見された。 ほかにも、堤防部分の山との取り付け部分の工事中、和同開珎や中国の貨幣など六四枚が発掘されたがいずれも平安以前の貨幣でその時期に埋めたものであろう。この付近の地形は山あり、川ありで、星田名所記では、九里垣内という地名を載せていて、古くから人が住んでいたのであろう。

 地下下(じげげ)

 旭縄文住居遺跡の北側の地下々は、明治の初期には、家が一軒もなかったところであるが、過去の歴史をさかのぼれば、いろんな史実や話題が残っている。

山中の小松寺への参道は、地下下から地獄谷川に沿った道(現在のバス道)を南星台四丁目の大阪電気通信大学のグランドの西側の谷道から途中で 尾根道を登るルートが賑わっていて、当時地下々では、日用品を売る店や、参道沿いによくある色町もあったとされる。

 江戸時代、地下下に源姓の星田次郎右衛門という武士が住んでいた。この武士は、星田出身で、 七歳で一一歳の豊臣秀頼に嫁いできた千姫の取次役で元和元年〔一六一五年)の大坂落城とともに、千姫につ いて江戸に帰ったとされる。その屋敷跡は、畑で7~80坪であった。

北星田地区を歩く

北星田地区とは最近の住居表示では︑JR学研都市線の北側の広範な地域のことをいい︑北星田地域は︑東西を分ける形で中川が流れている︑中川の東の地域は︑奈良時代の大化の改新の頃︑条里制区画が行われるなど天野川流域の米作優良地帯であり︑さらに時代を逆上れば防龍森ノ木︑中水道などで弥生遺跡が発掘されている︒中川以西の地域は地形の上から中川の地盤より高く干︵乾︶田ともいはれ︑牧場に使われてきたところであるが︑この地域は︑江戸時代寛永期以前に星田大池の築造が開始され、元禄一〇年の星田村絵図では一、三町規模の池の給水開始によって、星田村全村の水田等に対する平均給水位を高めて以来耕地が中心であり︑古い歴史をもつ高野街道や共同墓地以外は︑農耕地が最近まで残り、近年、府道泉大津交野枚方線、交野久御山線の開通に伴って沿道沿いを中心に一部で都市化が進んできたが、とりわけ最近の第二京阪道路の開通以後開発が急で、この地域は、交野が原の南の一角を占め︑星田牧の時代など今後行われる発掘調査に大きな期待がもたれる。、この地域は、小字地名の上から興味のある地名が残っている︒︑堀之内︑かなかど︑くるもうじなどはちかずき姫の長者屋敷にからむ地名ともいはれ︑市の西は︑昔牛馬市があったとされていて︑お伽ぎ草子の話は寝屋川市が中心であるが︑その長者屋敷についてはその広さから星田をまたいで施設が建っていたと思われる。近年第二京阪道路の開通をはじめ北星田地区は急激な開発が進んでいて、従来の小字地名の区画であった里道や水路が消滅しようとしており、そのため里道、水路を中心に農耕地の現状を記録に残し、次世代につなげることも必要と考えている。なお掲載の地図は現在の住居表示の区画割と昔の小字地名の区画割を重ね合わせている。

もう一つの六路の地蔵

R星田駅の東側で高田に向かう市道沿いに建っているもう一つの六路の地蔵さん。この地蔵さんは古くもともと東高野街道街道沿いに建っていて、旅人の安全を祈るものであったが、現在は街道には昔の賑わいがなく、市道沿いに立っているように見える。

東高野街道と一里の塚の碑

東高野街道この街道の道幅の基準は、江戸期は六尺、明治期は八尺であったが、この区間は八尺(二,五m)である。天保一四年星田村絵図では道を挟んで二本の松が植えられていて、現在道の北側に少しの土盛りと一里塚跡の碑が立っているが、村に近いの四馬塚側にも松が立っていたのであろう。また松の下には、お大師さんが祀られていたとされるが、大正三年の陸軍大演習の際、この松の処分で得た費用で、現在の半尺口のお大師さんが、当時の村の入り口である半尺口につくられたとされている。

星田牧の碑

現在の星田駅周辺は等高線で標高四五mあるが、当時の水田耕作の水源は、中川が中心であり、中川の水はせいぜい標高四〇m以下のところを流れていて中川以西の地は星田大池ができる以前は、利水の観点からは恵まれず平安以降では牧場に使われていた。星田牧では、平安の末期に飼育していた牛馬が病気で大量に死んだため、淀川の向こうの三島郡上牧の為禰牧(いねのまき)の牛馬を移して飼育することになったが、税の取立てが厳しく、属地扱いされるので、奈良興福寺別院円成院に寄進し、その荘園として庇護を受けることになった。そのときその荘園境界として傍示川筋が用いられた。傍示川という名称の由来は、ここからきているとされている。

東枚方街道交野市道星田北線と軍用鉄道引き込み線跡

市道星田北一号線

東枚方街道とは現在の妙見口から千原を超えて神出来︵かんでら︶で府道泉佐野交野枚方線と交差し︑香里から枚方に向かう道で︑近年交野市道星田北線として拡幅された道のことである︒この道は現在のJR学研都市線の前身である関西鉄道︵当時民 営︶は︑明治三一年に開通したが︑京阪電車の開通は︑一二年後の明治四三年であり︑当時の枚方の人が乗り物を使うためには︑星田か津田に出る必要があったため枚方から千原まで東枚方街道として造られた道である︒当時枚方からは︑枚方ー田井―住道ー八尾に至る幹線の枚方街道︵古くは︑河内街道といった︒︶があり︑その東側を通る道であるので︑このように呼ばれた︒

た交野市道星田北線の神出来の交差点の少し北側から現在の星田駅の南口に向けて弓なりに曲がった道︵正式呼称は市道星田北一号線︶は︑先の大戦中に設置されていた軍用引込線跡で星田駅から陸軍砲兵工廠香里製造所まで火薬等の材料や従業員輸送などが行われていたが火薬庫の火災によって廃線になった︒

中村中尉の記念碑

市道星田北一号線道路にある太平洋戦争の遺跡 故中村中尉の鎮魂碑。昭和二二年七月九日アメリカ機との空中戦で撃墜された鹿児島県出身の中尉の鎮魂碑

星田池(星田村の飛び地。)

星田駅の北側にある星田池(旧魚釣り池)は、旧寝屋村域に立地するが、村境は池の中央に引かれており、星田村にとっては飛び地扱いになっていたのであろう。かって星田大池からの放流水は星田村が一〇日取水をすれば寝屋村が一日取水するということで、寝屋村が星田大池の一〇分の一の取水権を持っていた。その権利の発生は、寝屋村が建設費の一部をだしていたのではなかろうかという意見があるがはっきりしていない。そこで考えられるのは、星田大池の築造にあたって上流の傍示川の水(地獄谷川とぼって川)は、降雨時の水量が多い時以外の晴天時は、すべての川水は、星田大池で貯水することになり、下流側にとって事実上水利権が消滅することとなったため、代替措置として一〇分の一の水利権 が発生し、そのためのため池であったのであろう。

偉い人の墓

戊辰戦争のきっかけとなった鳥羽伏見の戦い、星田村からも市橋の殿様の陣屋におにぎりをもって見舞いに行くなどいろいろあったようであるが、幕軍が劣勢になり、当時の東高野街道は負傷兵が引き上げ、星田の各寺は負傷兵であふれたという。その中で詳細は不詳であるが慶応三年(一八六七年)偉い人の墓として祀られている墓がある。当時の農地の所有者が長らく祀っていたのを近年、自動車の販売店がその土地に営業所を建てたが、営業所のらせん階段の下で祀られてきた

天保一四年星田村絵図が描く樋と水路

降雨時に、中川の上流の妙音池などの池がすでに満杯になり、これ以上はあふれるときは︑中川下流の川尻の池の手前の砂田の橋付近まで流して︑そこで水を東西に分けていて︑そこから東側を東部落︑西を西部落という呼称が 残っていたとされている︵西井長和氏星田懐古誌︶︒天保一四年星田村絵図で反円形の水路と龍越樋・寺ちか樋・砂田伏越・下藤尾樋・中藤尾樋・西之内樋・川尻池越樋など沢山の樋が描かれている︒西の部落は龍越樋寺ちか樋︒砂田伏越から川尻の池越樋を通じて字野田︑字江尻方面へ︑東の部落は︑下藤尾︑中藤尾︑西之内の各樋を通じて字西の内などのスイッチシステムを描いていて︑現在でも各樋や水路などのシステムが残っている︒砂田伏越でトンネルの向こうが寺ちか樋であろう︒

現存する半円形の水路と砂田伏越樋

半円形の

水路はJRの高架をくぐって(上写真)中川の土手に向かい(中写真)中川の土手に作られた砂田伏越樋(写真下)から中川に流入しているのであろう。

龍越樋から砂田伏越先方の土手の下に向かう水路

坊領の弥生住居遺跡跡

学研都市線の北側沿いの藤が尾小学校と天の川鉄橋の中間付近にある坊領の住居遺跡の跡の碑この付近は弥生時代からの優良水田地帯であり、また前節の坊領遺跡で記述している部族間で耕作地の争奪戦がおこなわれた石鏃のサヌカイトが発掘される地である。

川尻の池

府道のそばの交通慰霊塔︑付近にあった一町ぐらいの大きさで︑中川の西岸の川尻の池である︒徳川初期の古地図にはすでに

描かれている古い池である︒池の岸には葦が生い茂り︑水面には︑一面に菱や水藻が浮かんでいて︑水は常に暗く淀んでいた︒見るからに気味の悪そうな池であったとされる︒昔から数匹の河太郎︵河童︶が住んでいて︑村人が池堤を歩いていて足首をつかまれたという伝説が残っている︒

星田墓地周辺を歩く

小なべ橋(墓の前橋)

星田墓地の入口近くにある東高野街道の橋、この街道が明治時代の広域交通路として華やかなりし頃、唯一の府道施設として石橋であった。当時天野川に架かっていた私市道と私部道の二つの橋は、いずれも里道として木製の橋であった、

道しるべ地蔵

星田の村人が共同墓地にくる場合、中川沿いの道から高野街道に出て、左折してきた。ここは、四辻で名のとおり墓地から離れたところに道しるべの地蔵として建っていたが、臨港製鉄(現在の新関西製鉄)建設の際、墓地の入口に移された。

お迎え地蔵と川の改修時に発掘された六体の地蔵(上)六地蔵と板碑形石仏(下)





テキスト ボックス: ...........小字地名が語る北星田

、堀之内、金門、車司は、鉢か づき姫の長者屋敷由来の地名とされ、市の西は、昔の星田牧(古墳時(牧場。)にからんでとされる。尾道(おどう)は日本書紀紀の仁徳天皇が設置した茨田の三宅がここにあったということである。

鉢かづき姫の長者屋敷

鉢かづき姫の物語は室町から江戸時代につくられたお伽草子に記載された物語であるが、寝屋川市にはこの原本の一つともいえる「河内国交野郡寝屋長者鉢記」(寝屋川市役所蔵本)があり、これは一巻から七巻の七冊に及ぶ長編である、ここに記載の寝屋の長者(備中守藤原実高)屋敷は、東西十二町(千三百m)、南北四町(四四〇m)の広

さがあり,幾百坪の建物や一〇数坪の土蔵が並び近畿でも長者の頭と呼ばれていて、寝屋川市の萩原、垣内、と連続する交野市側の「堀之内」は屋敷の一部、「金門」に東の大門があり、「車司」は、長者屋敷の牛車引きや牛馬の飼育人の住まいが由来の地名であるとされていて、長者屋敷の規模は、寝屋川市、交野市をまたぐ大規模なものであった。一六五九年(万治二年)松会堂蔵板写本『寝屋長者鉢かづき』は、備中守藤原実高は一二七九年(弘安二年)頃の人で、万治元年頃には屋敷が残っていたという。寝屋川市の伝寝屋の長者屋敷(公園 )に掲げられた長者屋敷の絵図である。手前に橋が架けられて川筋が描かれているが、この川は傍示川の下流で、現在でも寝屋川市になると名称を変えているがタチ川であろう。池が二つ描かれているがこの付近は堀の内といって当時の寝屋村と星田村境で、寝屋村側には堀ノ内、星田村側には堀之内という小字地名が残っていて、この池が掘りであってそこに長者屋敷の本丸が立っていたのであろう。星田地域は第二京阪道路の開通以来市街化が急速に進んでいて、農耕地は減少の一途をたどっており、小字地名は、農道里道が境界になっているが、過去の小字地名の区画の証拠として撮影し蓄積しておいたものであるが、この写真を使って説明する。

二枚の写真は、 上の写真は、西側の寝屋村(当時。現寝屋川市。)側、 下の写真は、星田村(当時。現交野市。)側の写真でJR星田駅の北付近から連続ワイド風に撮影したものである。上の写真の右側と下の写真の左側にタンクが描かれているがこの両写真のタンクは同じものが写っている。このタンクは大阪市水道局のタンクで、東西には水

道道(交野市道四号線)に沿って立っているが、南北では、当時の星田村と寝屋村の境界線上にたっている。両写真の背景には第二京阪道路が写っているが、この道路の北側は、西は高田村(当時。現在は、枚方市)東側は、茄子作村(当時、現在は枚方市茄子作)で、当時の星田村の北の境界付近にできた道と考えてよいだろう。

次の写真は、堀之内付近を拡大したもので、星田村の堀之内と寝屋村堀ノ内が接したあたりである。

両ホリノウチの間には現在はJR星田駅の北側にある星田池(旧魚釣り池)付近から川(用水路)が流れており、地名は側田となっているが、この地名の由来は川田で、星田大池の水が江戸時代にはすでに用水路を通じてとどいていると考えられるが、川水を使った水田地帯という意味であろう。また堀之内の東側の地名は上平池と池の名前がついているが、堀之内の堀は、用水池で、星田大池からの灌漑用水が未達の時代は、棚田の耕作地であったのであろう。

次の写真は東高野街道が縦に走っていて手前側が上平池で農道をはさんでその向こうが金門で、遠くに高いマンションが写っているがこれは星田北一号線道路沿いに建っていて、その付近の小字名を車司といった。金門は長者屋敷の豪華な金の門がその語源の由来とされているが、東高野街道沿いに立っていたのであろう。

東高野街道の右側の地名は四馬塚となっているが、この地名は、芝塚のことで一里塚があったことを示している。天保一四年星田村絵図では東高野街道を挟んで一里塚を示す松の木が二本えがかれているが、現在は写真の少し手前の下平池のところに、塚が残っていて、一塚跡の石碑表示がされているが、昔は街道の村側の四馬塚にも松がうわっていたのだろう。

尾道(仁徳天皇時代の屯倉)

四世紀末から五世紀はじめにかけての仁徳天皇は、茨田の屯倉を作ったとされる(日本書紀)。吉田東伍(1864~1918)の大日本地名辞書に三宅山は、星田村にあり、「茨田三宅の遺構なるべし」、とあり当時茨田郡の中に交野郡が含まれていたため、星田にあったとすると、尾道(おどう)は、大蔵(おおぞう)ともいい、この地が候補地にあげられている。 交野屯倉は、6世紀の敏達天皇の頃、蘇我と物部の対立時代に後の推古天皇(女帝)が皇后時代に交野一帯の土地1488町歩の土地を皇后に寄贈していわゆる私部(きさいべ)とよばれた土地は、皇后から天皇になったため屯倉とよばれた が、それ以前の仁徳時代にヤマト政権の拡充は屯倉を広めて地方支配を進めていった とされているが別の屯倉であろう。

右の写真の建物の手前付近から第2京阪と 星田北線の交差点から京阪バス車庫に至る手前付近が尾道である。尾道は、今回第二京阪道路建設で平池遺跡が発掘され、古墳時代の遺構などが見つかっているがその数百メートル東側である。