小松寺(廃)の伽藍配置

廃小松寺の伽藍配置

本文は交野古文化同好会の機関紙「石鏃」の四〇周記念特別号に投稿掲載されたものをほとんどそのまま掲載したものです。

1    私の見た廃小松寺の石積みや散乱してあった瓦投げに 用いるかわらけ

古文化同好会の健康ウオークのことを私が入会した頃は、たしか歴史ウオークといったと思う。昭和五二年に入会して間もなく五三年に国境歩きといって交野市の市境を三日かけて歩く催しがあった。今や当時のメンバーは会長の奥野平次さん、和久田薰さん、井戸さん(後の会長)などで古いことでほかの同行者の記憶はないが、初日は、たしか寝屋古墳から東高野街道沿いの弘法井戸、打上神社、石の宝殿(古墳跡)を経て当時あった星田パブリックゴルフ場のコースの西側を通って山道に入り。この道は、交野市と四條畷市の境界になっている尾根道で、現在は関西電力の送電線の補守道にもなっていて整備された道である。西谷山頂を越えて北山師岳などを経て、現在は府民の森になっていて形状が変わっているが最後は、天孫降臨の哮が峯(たけるがみね)から岩船神社あたりで初日は終了したと思う。その行程の中で(廃)小松寺のあった小松山に立ち寄った。小松山は四條畷カントリー倶楽部のゴルフコースの中にあって、北山師岳から馬木の嶺に続いてる比較的幅の広い穏やかな尾根筋からゴルフ場の4番ロングコースを挟んで南側にあり、当然このコースを横切って入った。そこで見たのは相当大きな石垣積みとかわらけ投げに使われたと思われる土器が沢山散乱していた記憶が残っている。石積みの大きさ形状は、記憶はかなりうすらいでいるが、高さは四~五mで長さは一〇m以上あって、石垣の石積みではなく建物の基礎に使われていた石積み風であったと思う。現職を退職した一五年ほど前に同様に小松山に入ってみたが、完全に個々の石もない状態で整備されており、全く痕跡が残っていなくて、今日では、自分の夢妄想ではなかったかと半分疑う気持ちで、その時写真を写していなかったことが悔やまれてならない。

2 小松山の全貌

廃小松寺のあった小松山は、交野市の南の四條畷市との境界の交野市側にあった寺で創建は、小松寺縁起(後に詳述す る。以下「縁起」という。)の記載とは別に八四五年の荒山寺とされる。昭和四〇年前後から四條畷カントリークラブの造成がはじまり、現在は、ゴルフクラブ四條畷の一部になっており、かなりの部分がゴルフコースになっていて、小松寺のあった小松山は景観として一部残っている。ゴルフ場になる前の小松山の全貌を明治四一年作製の地図から見たのが第 一図である。高低図の太い線で描かれている高度の高かった部分は、現在でも景観として残っているのが小松山である。周辺の細い線で描かれている部分は東側は九番、南側は八番、西側は六と七番、北側は四番のゴルフコースあるいはその一部になっていてかっては小松山であった部分である。

。その結果昔の小松山は細い線でかこまれたコース部分を含めた範囲で、東西で五〇〇m、南北で二五〇mと 太線の現在の小松山の景観として残っている部分の四倍くらいの大きさであった。

次に小松山は、( 頁の明治初期の絵図の小松山地図を参照)北側は星田の北山師岳から馬木の嶺や府民の森星田園地に向かう尾根筋、東側は小松谷川(妙見川の上流。)、南側は、交野市と四條畷市の境界となっている尾根筋、西側はなすび石の谷(星田新池の東側に 流入している谷。)に囲まれた地域である。星田からは昔は、茨尾の坂道の頂上から西門坂の尾根筋を通って西の大門をくぐって小松山に入ったが、この尾根筋がゴルフ場の4番コースで削られ現在は、分断されている( 頁の西門坂の写真参照。)。小松川谷沿いからは沢沿い道に南の大門をくぐって入山していた(片山先生の絵画参照。)。山の形状は西門坂から堂跡嶺を挟んで市境界の尾根筋に向かって南北二七〇m~二八〇mの比較的平坦で道幅が広い尾根筋(図の西門坂道。)が走っており、小松山ではこのあたりが一番高度が高い屋根地帯になっていた。また、その尾根の最高峰の堂跡嶺(高さ二八六m。)の北側から尾根筋が東西に走っており(図の東西道。)、その形は、平たいお椀かお盆を伏せたような形をしていて、オープンスペースが活用しやすい形体をしている。その尾根筋の途中に小松が谷という峻烈な谷が入りこんでいるが、後述するようにこの付近が本堂ほかの伽藍の中心地帯である。小松山の全体の高度差は小松谷川(二二〇m)と堂跡嶺との高度差は50mである。

3 小松寺縁起による小松寺の伽藍等について

小松寺縁起とは続群書類従に記載されているもので、続群書類従とは、平安末期に東寺で記録されたものから応永年間(一三九四~)に塙保己一検校により筆写されたものである。小松寺縁起には、小松寺の寺内について道、谷、伽藍、坊舎の数,僧の人数について記載している。大谷  七、小谷  一九、大道  三、小路  五としており大谷七は  図で示している

大谷一から大谷七であろう。 大道については、同図の西門坂道、東西道、および南大門道(いずれも説明の便宜上つけた仮称名。)が想定される。。

伽藍やその他の寺内の様子については、 根本草堂(本尊観 世音菩薩。) 金堂(本尊弥勒菩薩。) 講堂  宝塔  鐘楼  経蔵  西の大門   北の小門  東谷宝蔵  南谷御倉  西谷食堂 北谷閼伽井  戌亥 西北 角矢土  丑寅 北東 角大池  未申 西南 角小池  辰巳 東南 角湯屋  金堂前蓮池  講堂前矢土、食堂前井  閼伽井上毘沙門堂  坊舎六七宇  僧衆一二〇人、児童(小僧)三八人       と書かれており、これら伽藍等の建設時期や規模にふれているものをあげれば、(廃)小松寺の創建とされている天台宗学徒の荒山寺は、三尺のお堂に九寸の観音堂であったとされている。九二五年に夫小松影光のために秦の姉子が七間四面の草堂を建てて寺名を小松寺と改名した。九三一年に二間四面の金堂、九三八年に講堂を寄贈を受け建設し、九六八年に一一間の食堂を建設したとされている。しかし数次に及ぶ地震、台風による崩壊や再建あるいはそのための北河内有力農民からの寄付等の経由も記載している。長い歴史の中でいろいろな変遷を経ていることがわかる。

4堺県星田邨絵図から見た廃小松寺

堺県星田邨絵図は、一万分の一の実測地図であって、村の集落地や平地では昔の地名である小字名とそのエリアを示した地図である。しかし山地では現在の等高線方式が採用されていないため、山の形で山を表現し、また山道ルートを線で表し、また樹林山、禿げ山や岩石山などの状況を樹木や岩石の絵であらわした絵図になっている。またなすび石の滝やその滝壺近くにあったなすび石や天孫降臨の哮が峯やそれに張り付いたように建っていた岩内道(洞窟のあった石の山。現在のクライミングウオールの前身。)などの特色のあるところは立体画で描かれている。小松寺の小松山付近もよく見ると立体映像の風景画風に描かれている。

この地図からは、小松が谷を挟んで三つの伽藍跡があり、ところどころで石垣が残っており、南の大門からの道は尾根道ではなく、沢 谷 沿いに登っており、特に北谷の記載があるがこの北谷は、書き方からして個々の谷につけられた名称ではなく、小松山の北斜面にあるすべての谷または北斜面全体の総称かその北斜面 地域の地名的なものではないかと思われる。山の対岸にあり、唯一現存する北の小門について北谷にあったという記述が残っていることからもこういうことがいえる。このことは、縁起で書かれている伽藍の一部に例えば東谷宝蔵、西谷食堂など伽藍の名前に方位のついた谷をわざわざつけていることについてこれは、その建っている位置を示しているといえるのであろう。なお、この地図が描かれた明治初期でも小松山周辺は樹木が少なく、はげ山地帯であったことがわかる。

この図は、理解しやすいように加工しているが、追加した文字は、□  で囲んでいる。

5 四條畷高校地歴クラブによる廃小松寺の調査(昭和40年)

四條畷高校地歴部では、昭和四十年一月三一日に四條畷カントリークラブ(当時)、からゴルフ場建設途中で古瓦や礎石の発見により、調査依頼を受け、同年一月三一日に同地歴クラブ二七名ともども一日だけの簡単な調査が行われている。調査結果を当寺院は小松ケ谷と呼ばれる懸崖の台地上に立っていて、そこは階段状の三層になっており、上

部二層から瓦が多くでており 三m四面と二六m離れて一〇m四面の建物の礎石などがあったと報告していて、第4図の図面をのせている。(四條畷市史)。この図に記載されている2つの建物は、前項の堺県星田邨絵図の鐘堂跡と手前側の堂跡と一致するものであろうと考えられる。階段状の3三層構造は、この小松が谷付近の丘陵は、もう少し精度の高い縮尺の地図があればっきりするのであるが、この明治の地図で見る限り、高度270m地帯で半径50mの円形、260m以上では南北100m、東西170mの楕円形、250m以上では同じく200m、250mの楕円形、一番裾野の220mでは同じく260、280mの楕円形と上部で平べったいお盆の形をしており、これが階段状に区切りをつけて3層になっていて、その上位二層のうちで平坦なオープンスペースが広いところで土地利用がはかられて伽藍がつくられていたのであろう。

6 三重の塔建設供養会の会場図面から見た小松寺(長禄四年―一四六〇年)

縁起では、三重の塔建設供養会の儀式の詳細な記録を残しており、これは、公卿や高僧を招いての真言宗の万茶羅供という正式な次第にのっとった法要で、東寺の観智院の住持や20名の僧侶なども出席していて、当時の小松寺の勢力を示すものとされている。またこの法要の次第は、書写本として江戸時代になっても儀式の参考資料として重宝がられていたとされている。廃小松寺のお寺については、配置図面などはほとんどないが、唯一、この三重の塔の建設供養会の儀式で本堂、鐘撞堂 三重の塔の施設配置と楽屋や集会所、鎮守などに臨時で使われたと思われる施設配置図面がある。この図面によると本堂の礎石は縦横ともに、6個づつ並んでおり、五間で、これに3の四條畷高校地歴部が調べた各礎石間の間隔5,4mを代入すると大きさは約27m四方となる。また本堂から鐘撞堂までの距離は10m弱となり、本堂と鐘撞堂は近づくことになる。この図に記載されている楽屋、集会所、鎮守などの配置は儀式のための臨時の名称であって、特に集会所から本堂に進列を作って進む儀式は,最も盛大で丁寧な儀式とされている。従って、集会所は、講堂を転用していたことが考えられる。となると楽屋が草堂で、鎮守が経蔵と考えるとこの配置図面は、縁起の前段にかかれている伽藍が全て書かれていることになる。    

7(廃)小松寺の伽藍配置について

一般に寺院の場合、七堂伽藍といはれるが、これは、金堂、講堂、塔、鐘楼、経蔵、僧房、食堂をいはれる場合が多いが、縁起の場合 根本草堂、金堂、講堂  宝塔  鐘楼  経蔵が書かれていて、西の大門、北の小門を挟んで他の伽藍施設が続いている。特に7堂伽藍の一つであり、東寺の仏法僧の本堂、講堂とともに3伽藍配置の一つである食堂(じきどう。)が離れて記載されていて、しかも西谷食堂など西谷の名がついている。このことから前段の根本草堂以下六伽藍は、中心伽藍として前項の三重の塔の建設供養会の会場図面で述べた伽藍配置で小松ケ谷の懸崖上の丘陵に建っていて、食堂は 西谷、宝蔵は東谷、毘沙門堂は北谷に、南谷には御倉があったのであろう。また五項の星田邨絵地図の南側に書かれいる堂跡は、御倉のものになる。以上のことから小松寺の伽藍配置は、第 図のようになる。また細かい施設では、食堂の前に井戸があり、北谷には閼伽井(あかい。仏さんに供養される水の井戸。)があってその上に毘沙門堂があったとされる。また辰巳(東南)の角に湯屋があって、丑寅(北東)の角に大池があったとされるが現在でもその方 向にゴルフ場の排水用貯水池かある。星田の裏山が好きでしばし小松山を見るが、そのたびに平安ロマンに夢をふくませている私である。