廃小松寺

平安ロマン廃小松寺と小松山

廃小松寺は、平安期の八四五年から江戸元禄期の一七〇三年まで星田山中の小松山にあった七堂伽藍の真言宗東寺派のお寺である。昭和四〇年頃からゴルフ場(現在は、ゴルフクラブ四條畷)の一部になっている。小松寺があった頃の小松山は、想定図で描いてるように、現在の北山師岳(明治初期の地図の東岐)の南側の茨尾の坂道の頂上から小松山の堂跡嶺との間が尾根道で結ばれていて、そこに西の大門が建っていた。ゴルフ場造成のとき、この星田村の集落側と結びつけていた西門坂の尾根筋が削られてゴルフ場の四 番コースになったため、現在は  小松山は村側と分断されているほか、コースで削られ現在見かけ上の残っている小松山は、せいぜい2~3割程度である。小松山の形は、東西に長い、やや四角っぽい形をしていて、三層の階段状であったとされ、オープンスペースの活用が容易な比較的まとまった形状であったと思える。小松寺の入口は、星田側からは西の大門が、また小松谷川や逢坂、田原等の南側からは南の大門があった

廃小松寺は、小松寺縁起によれば、大谷七、小谷一九、大道三、小路五があり、根本草堂(本尊観世音菩薩)、金堂(本尊弥勒菩薩.)、講堂、宝塔、鐘楼、経蔵,宝蔵、御倉、食堂、毘沙門堂、西の大門、北の小門や坊宇六七宇 僧衆一二〇人児童(小僧)三八人がいた大寺とされている。この小松寺縁起や史跡調査結果から小松山の全体を想定したものであるが、小松山の地形や伽藍配置については、別項で詳述しているが、伽藍配置について要約すると、小松寺縁起の各伽藍の記入の仕方が、根本草堂,金堂、講堂、宝塔、鐘楼、経蔵の六伽藍が続いたあと、西の大門、北の小門が続きその後に西谷食堂(じきどう)東谷宝蔵、北谷に毘沙門堂、南谷御倉などは方位がついた伽藍が並んでいて、これは先の六伽藍がまとまって立地していたことが考えられ、また長禄四年(一四五六年)に三重の塔が建設され、その供養会が行われ、その時の式場図面が残っており、そこでは本堂と三重の塔、鐘撞堂とほかに楽屋、集会所,、鎮守の儀式に使われた三つの施設が掲載されているが、これら施設を伽藍を転用していたとするとこの儀式図面は、先の六伽藍が小松が谷の懸崖台の台地に立っていたことになり、北谷、西谷は地名で、それぞれの方位の方向に他の伽藍がちらばっていたのであろう。なお、この儀式は公卿や高僧を招いての真言宗の曼茶羅供という正式な次第にのっとった法要で。東寺からは、観智院の住持や二〇名の僧侶が出席していて、当時の小松寺の格式の高さを示すもので、僧侶などが列をつくって行進する荘厳な儀式でその可能性は強い。、

小松山縁起とは、続群書類従に記載されているもので、続群書類従とは、平安末期に東寺で記載されたものから応永年間(1394~)に塙 己一の検校により筆写されたものである。

交野市史の編集をはじめ北河内郷土史と絵画にも造詣が深い片山長三氏が昭和二二年に描かれた小松寺の絵画である。当時は原型がかなり残っていたのであろう。小松山の南の大門側の入口が描かれているが,小松谷川(妙見川の上流。)からは、五~六〇mの昇りになり、長い階段道が描かれている。階段の下の道と小松谷川との間の小高いところに、時代は戦国時代に下るが、楠木方の武将であった和田賢秀の墓が書かれている。この墓は現在ゴルフ場九番のティグラウンドの傍に交野市が建てた小松寺遺跡の碑の近くに立っているが、四條畷市史では、この墓は元々一〇〇mほど北東に立っていたものを移設したもので小松寺の敷地の広さの例として記述しているが、その元の位置に描かれている。絵画の左上の高い山は、なすび石の谷を挟んで対峙している星田山山頂の馬が峯(二七三m)である

。小松寺の創建は、西暦八四五年の天台宗の修行僧が建てた荒山寺とされ、当時この山は、草木もなく荒涼たる岩砂山であったことからの命名とされているが、小松山とその周辺は歴代絵図でも山林が少なく、禿山が目立って描かれている。。

西側は、なすび石の谷(現在の星田新池の西側に流入し ている谷。)の上流が流れていた。北側は、星田の村側で、小松山に平行して尾根筋が走っていて、この尾根筋は、現在の北山師岳から,北の小門遺跡を経て、馬木の峯や府民の森星田園地のまつかぜの道に通じている道で、昔は、この東西の尾根筋と小松山との間が図の西門坂という尾根道で通じていた。

明治初期の堺県星田邨実測絵地図が描いている小松寺遺跡とその周辺

地図の正式名称は、堺県管下河内国第3大区星田邨萬分之六図といって実測地図であるが、山岳部分では現在の等高線ではなく、山の高さなどは、山の形で立体表現され、山道や河川のルート、山林 岩砂山、藪地、砂山などの土地の詳細な状況を凡例をきめて表している。山の形状は全般的には南視点で示しているが、名勝など特殊な場合は、北視点や東視点(哮ヶ峰の周辺)で書かれている場合もある。小松山の場合、北側の斜面や堂跡嶺などは、北側からの視点でかかれているが、堂跡や鐘堂の文字が逆になっており、樹木地帯の樹木が逆に描かれているのは南からの視点で、法(のり)面全体がそのように描かれていて、従って小松山の場合、北斜面は主として北視点、南斜面は南視点

が主で立体表現がされてる。伽藍は、後述するように懸崖の上の台地に集中していたとしているが、絵図では、この懸崖や南の大門の道の両側に石垣などが残っていて描 かれている。片山先生が描いて おられる光景は、当然想定部分もかなりあると思うが、石積み、石垣等は写実に近いものであるかも知れない。

廃小松寺は、江戸元禄期の一七〇三年に本尊の十一面観音を星田神社に移して 廃寺となったが、明治初期のこの地図でも絵地図で小松山の全体像と当時現存 していた南  北二箇所の 堂跡と鐘堂跡を描いている。この二箇所の堂跡は、廃小松寺の伽藍配置で述べるように,北側の堂跡は、本堂で、これと一〇mほど離れてたっていた鐘堂である。南側の堂跡は、南谷にあったとされる御倉であろう。中央の黒くぬりつぶしてあるところが,小松山であるが、その右下の北側斜面に書いてある小松は地名(小字名)で、南側

の小松谷川を越えてこの地図の最南端で北田原村(現在の四條畷市)との境界までの地域をいった。その右側に北谷という文字が書いてあるが、これは多分地名であろう。小

松寺縁起の伽藍や施設名称を理解するために、大きなヒントを与えてくれるものである。縁起では小松寺にあった伽藍や施設を表すのに、東谷宝蔵、南谷御倉、西谷食堂、北谷閼伽井、同毘沙門堂など方位のついた谷が名称で使われており、また金堂,根本草堂、鐘楼などついては、全くついていない。詳細は、小松寺の伽藍配置の項に譲るが、東谷,西谷などは、地名で、その方位にあった谷などの山の法面だけでなく、そこから上の台地部分を含む広範囲な地域の地名であっ たのであろう。他方、方位のついてない六つの伽藍や施設は、寺の中心部に集中してあったのであろう。

小松寺(廃寺)およびその周辺の現況を見てみると北山師岳から数百m南に向かうと進路が東向きに変わりやがてゴルフコースに沿う道になる。このゴルフコースはゴルフコース四條畷の四番ロングコースで、コースの対岸の小高いところが小松山の中心で、一番高いところが堂跡嶺で、ゴルフ場造成前は、茨尾の坂道の頂上あたりで小松山との間が西門坂という尾根筋で結ばれ、そこに西の大門が建っていて村側からの進入路となっていた

西門坂と西の大門

西門坂はゴルフ場四番ロングコースの中程に地盤が高く盛り上がっていて、左右の山が一番接近しているところがあるが、昔はここが尾根筋で連なっていてそこに西の大門がたっていたのであろう。西門坂という名称が残っている。

北の小門遺跡、星田からの山道は,萱尾八丁の山坂道、宗円ころりの道、はしご坂道などがあったが星田からの参拝は、村人は、ほとんどが萱尾八丁の山坂道を使っていたと

される。北の小門は、西の大門に向かう西門坂の数拾米手前にあって、小松山の外にある施設で、現存する唯一の生き証人となる施設跡である。北の小門は、はしご 坂道など東からくる道と北からくる萱尾八丁の山坂道の交流点になっていたが、昔はもう少し広かったのであろう。長い年月の風雨で土砂が流出したため多くの礎石が落下したのか法面の麓に転がっている。

この絵図で小松山周辺の地名や山道ルートを見てみると、地名は、山の南側は、小松であることは既に述べたが、東側は菖蒲が滝(小字地名)で、小松谷川は下流は、妙見川(古くは東川といった。星田中川に対する対義語であろう。)であり、途中同名の滝があるが、この滝の上流下流で川の名称が小松谷川から妙見川に変わる。この地名の菖蒲が滝の由来は、この一帯で昔、小松寺の僧侶達が,副職で,薬草として菖蒲を植えていたからとされている。北側は、茨尾といったが、一般に星田の山ははげ山が多かったとされているが、ここも茨のような潅木が多生していたのでこのような地名がついていたとされている。西側はなすび石の谷(現在の星田新池の東側に流入している谷。)が流れていて、小松山の西北の麓あたりにひさご(瓢箪)の池といって、瓢箪の形の池があって、絵図では淵と書いているが、星田山頂上(馬が峯)の尾根筋からなすび石の谷に向けての東斜面一帯の地名を池の内といったが。この地名の由来となった池である。

南の大門と参道 南の大門とそれに向かう参道は、小松谷川からの登りの階段道で、片山長三先生が描いておられるが、現在は八番ゴルフコースになっている。当時は、想定図で描いているように小松山の南の大門からは、階段を下ったところには妙見川の上流である小松谷川が流れていて、上流(西向き)側に向へば、逢坂(現四條畷市)や清滝街道に通じていた。東向きに下流側に進めば四つ辻になっていて、この四辻を北に行けば平坦な下りの沢沿い道が続き菖蒲の滝を経て妙見川に通じている。四辻を東あるいは南に行けば、南田原、岩船神社、岩船街道に通じていた。自動車のない徒歩交通の時代には山越えは、最短のルートであり、徒歩が交通体系の主体であった時代であったが、その意味からは、小松寺は、交通の要所にあったとも言えなくもないが、真言宗東寺派のお寺として、平安期には山岳仏教として栄えたが、鎌倉期になると法然、親鸞、日蓮などのいわゆる鎌倉仏教が起こり、広がる一方で、小松寺は、人里離れたところにあることもあって、その寺としての機能を徐々に失って江戸末期の一七〇三年に廃寺となった。

星田寺の十一面観音

小松寺は、江戸元禄期の千七百三年の廃寺の際、草堂にあった  本尊を星田神社に移されたが、明治初めの廃仏毀釈のときにさらに星田寺に移され、現在同寺の十一面観音堂で祀られている。交野市指定文化財。

妙見山南の墓地(延命地蔵)

星田妙見(小松神社)裏参道付近で延命地蔵の名称で祀られているが、この墓は、果樹園にするべく、この土地を買った人が耕してみると、地中から石塔類がでてきて、心斎橋の錫半の社長などの協賛者がお堂を建て、愛護を続けてきたものである。古いもので 鎌倉時代、室町時代のものであるが、江戸時代の新しいものはない。種類は、五輪塔、一石五輪塔、舟型板碑等  立派なものが多く、その数は二百を数える。当時の庶民の経済力では建てられるものではなく、 小松寺の上級の僧の墓とされている。

小松寺への星田からの参道

 萱尾八丁の山坂道

星田の村人が最も多く利用した参道である。萱尾とは地獄谷川(現在の傍示川)に沿った細長い小字地名を萱尾といって萱が多く生えていたが、現在の大阪電気通信大学のグランドの西側の谷筋に沿った沢道を歩き途中から山道を歩き北の小門をくぐる道である。

  宗円ころりの尾根道

室町時代の応仁の乱の頃、小松寺の貫主宗円がこの険路で過って尾根道から落ちたが、首にかけていたお地蔵さんのお守りのご利益で一命をとりとめたことが評判になり、この地を宗円ころりというようになった。この道は山中の尾根道だけでなく、地下々(星田新池の北)あたりから長い尾根道であり、また妙見川沿いの大宅山付近からの分岐道が宗円ころり付近で合流していた。しかし地下々からの道は、現在では住宅、道路、グランドの造成で消滅しており、大宅山からの道は、ほとんどそのままのこっている。

妙見川小松谷川の沢沿い道

妙見川を現在の府民の森星田園地に向かって川沿いに登ってゆくと、菖蒲の滝を越えると川の名称が小松谷川になり、ゴルフ場になる前は小松山の東から南側を流れ南の大門に通ずる入山道や逢坂に向かう川筋である。最近では立ち入る人がなく荒れているが、ゴルフ場近くまで沢道が残っている。

梯坂道(尾根道)

妙見川沿い道を登ってゆくと、菖蒲の滝の少し手前の右側にある石堤をよじ登ると尾根道が通じており、急な坂道で七曲がりの道であり、これを登って行くと馬木の峯

に達し、西に進路を変えると、北の小門、茨尾の坂道の頂上(昔の西門坂)に通じている。なお、石堤は明治初期の絵図では、滝として描かれている。

北山師岳(東岐)標高二七〇m

小松山以南の地がゴルフ場になる以前の小松(小字)の地は堂跡嶺の二八四mで、小字の小松内の半分以上の嶺が二七〇m以上で屋根地帯を形成していたが、ゴルフ場敷地になって、里山からはずれている現在、北山師岳が最高峰となっているが、絵図では東岐と描かれている山である。

地名に残る小松寺(廃寺)、小松城

南星台四丁目付近で小字名で初項(頂)、八畳ヶ谷、八丈などの地名が残っているが、これはこの付近は、小松寺から丁度八丁あることからこれを訛って残っていた地名である。

菖蒲の滝の上流付近から小松寺のあった小松までの地名を菖蒲が滝(龍)という。これは、小松山の坊僧達が、この付近に薬草として菖蒲を植えて副業としていたからこのように呼ばれたのである。

小松山の南に門口、傍示川のところに鎧坂の地名がある。小松山は、南北朝時代には和田氏が居城に使ったことがあったが、戦国時代には、河内地方でも、守護であった畠山氏、安見、三好氏などの戦国大名や武将が高屋城、飯盛城などに居城し、下克上の時代を推移したが、小松寺も一時畠山の武将であった遠藤昌親が小松城の領主となって交野地方を治め時代があった。これらの地名は、その名残りで、鎧坂では鎧をつけた武士達が往来したであろう。