語り部の星田

語り部の星田  

交野市古文化同好会機関紙「石鏃」は、市街化の進展や住民の高齢化が進み、古い町並み、制度、習慣、ことばなどの文化が風化されつつあるなかで、まちの古老やその筋の専門家などの語り部の記録を残すことを重視して編集されてきた。その石鏃の記録の中から古い星田のまちのすがたや歴史をみてみる。  

星田新池築造と旭縄文住居跡遺跡                

語り部   西井  長和氏(郷土史家。故人)

 下の地図は、明治初期に作られた実測絵地図である。星田新池はなく、現在のなすび石の谷とぼっての谷が合流して、ぼって川となって、傍示川(ここから上流は地獄谷川という。)に流入していた。星田新池は、明治の終わり頃、下の地図の富士山みたいなきれいな旭の山を2つ削ってこの土を使って、上流の谷を堰き止めて、堤防を作った。その土とりの最中に、傍示川に近いところで、10数個の古代人の竪穴式住居の跡を発掘した。穴の深さは、大人の背丈の3分の1ぐらいで、大きさは、広いもので,八畳ぐらいで、穴の底や壁に相当する部分は、厚く粘土が貼り付けてあり、室の中央に火を使った炉の跡があって、そこでは、木灰が詰まっていて、小鳥の骨や小さい獣類の骨が混じっていた。

竪穴式住居は、穴の周辺を6mくらいの竹や材木を並べ、その先端を一まとめにして蔦で結び、山形の骨組を作り、それを蔦草を使って縦横に結んで補強してから、その上に葦や茅の茎を隙間なく置き並べて、骨組みに結びつけて屋根を造っていた。縄文中期、今から4,000年前頃の遺跡であるl
石器、土器の破片などは弥生時代のものも出てくる複合遺跡である。弥生時代になると、水田耕作が行われるようになるので、川沿いや湿地などで適地が広がってくるので、遺跡の出る場所が広がってくる。

星田新池築造工事で和同開珎を発見        

            語り部  工事作業をしてて拾った人
大正四年の七月十四日、私が19歳のころ
星田新池の築造工事をしていた。その作業は、星田新池の北側

に東から西にかけて堤防をつくる工事で、山と地との接触部分(つめ)で粘土掘りの作業をし、別の組がトロッコで搬出作業をしていた。その時、別の組の人が、えらいもん拾ったげんがいいことだといって、古銭1枚を見せた。その時私のポケットには古銭のかたまりが入っていた。施主さんから「この山から出るものは、全て私のものである。」と言われていたので、全て施主さんに渡っていると思う。あとで調べたら全部で64枚あった。和同開珎は、1枚で、寛永通宝の方が高価と聞いた。
 私が拾った古銭の入れてあった土器は、灰の中に突っ込んで酒の燗をするような、先の尖ったものであった。当時私部の米つき屋が1枚1円で買いに来て、売らないと4円で買うということであった。私の日給が40銭であり、高価なものであった。後日施主さんの家で,古銭で奉という字を形どって額にいれてあるのを見たが少し枚数が足りなかったようだ。
これがどうして埋まっていたか、次のような意見が出た。
 「種類が多い。中国のものがほとんどであるが、古銭マニアがなすび谷の入口に埋めたのではないか。」
「 盗難や戦争から金を守るために埋めたのではないか。」
「ある人が寺に門を寄進したが、将来その門を修理するために金を埋めたと本に書いてあったがそれではないか」
「戦国時代にえり銭をして、良貨をまもるために、瓶に入れてつめておいたのではないか。」などいろいろな意見がでていた。

和同開珎(708年)-嘉禎通宝(1237年)の古銭でした、平安時代に、何かのしっかりした目的でうめたのであろう。星田新池の堤は、昔は、高価なものを隠すにふさわしい貴重な場所であったのでしょう。

拍子踊(雨乞い踊)十七番記  

(語り部 拍子踊十七番記の本をもとに西井長和氏)

この本は、菊屋(酒屋)のものです。本の表紙  寛政三辛亥年七月吉日  きくや政右衛門  拍子踊十七番記。室町か江戸の始めに原本ができたのであろう。 星の聖地には、よく似た名前がついている。 小松神社(妙見さん)は,龍降院、光林寺は、龍降寺。星の森は、龍泉寺という。昭和30年ごろ太秦の盆踊りで「しずはん踊り」をしていたが、古い唄と思った。星田の雨乞いについて教わったことがあるが、先立って次の祈りをしていた。 雨降らせ給え竜王大明神水沸かせ給え竜王大明神。 稲枯らせなむ竜王大明神。明治の始め頃は「なむてん踊り」を繰り返していた三日夜通しの雨乞い行事であった。時には音頭とりをやとったこともある。地主から金がでると踊り子に5~6人加わった。踊り子は、小さな鐘と拍子木をたたいて踊った。
踊り子は、京都の桂女(かつらめ)か法隆寺付近のさる女(め)がきた。衣装は、上は、墨染めで腰で短くなったもので、腰下はねずみ色の裾が出ていた。

肩は、襷がけで、袖口をくりあげて踊りやすくしていた。雨乞いの場所は、光林寺であった。そのお礼に、明治の始め頃に、星の御殿の南側の拝所が建てられた。昔は、絵馬が五十枚ほどかかっていた。

妙見祭
この境内で特に目立つ木は、もみじ、杉,、椋(むく)、樫
豊年でありますように、家族が健康でありますようにとお参りする。このお宮さんは人を集めるのが嫌いで妙見祭には必ず雨が降る。
正面の彫り物は、立派です。亀、亀の周囲は大波、亀の胴に竜がからんでいる。亀の顔は、竜の顔である。その下に竜雲楼の額がある。竜雲楼の額には、竜がえがかれている。 ご神体の石二個が北から東南の方に伸びている。 石段は、下から頂上まで二百十二段。
拝殿の前で、こんな話を聞きました。「このご神殿で雨乞いがありました。神主と氏子の代表が集まって、「雨たも、、たもいの、天に滴(しずく)はないのんか」と太鼓をたたいてお祈りした。
北斗七星信仰   語り部  西井長和氏

支那(中国)では、昊天上帝を祀った。冬至(12月22日ごろ)に唐では、天を拝することをした。その拝む星は北極星(=北辰星)であったのであろう。わが国では桓武天皇が2度にわたり北辰星を祀ることを禁じている。そこで弘法大師(真言宗)は、北斗七星を祀ったのであろう。人間の運勢は、八つの星にあてはめることができる。妙見さんの幕に描かれている八つの星は、八卦と結びついて八つの星を描いたのではなかろうか。

妙見菩薩という仏は、日本国現報善悪霊異記に、奈良薬師寺景戒(平安初期)に妙見菩薩がでてくる。

妙見祭に店屋がでました。光林さんの店で思い出すのは、ミタラシです。

裏の鳥居をくぐって登ると豊国竜王、保倉稲荷がある。
天保十一年拝殿が造られた時、星田の住民350軒と大阪の住民150人が寄進した記録があり、この神社に対する大阪の人の信仰が厚かったことがうかがえる。

星田名所記が描く妙見山

段の登り口手流石に万治元年(1658年)と彫られている。

吉田屋藤七と治山治水

江戸の中頃星田に吉田屋藤七という人がいた。天明八年淀川筋の支流の川が氾濫して困るので、治山治水のための植樹を、幕府に具申して功績をあげた。

花崗岩主体の砂漠に近い星田の禿山が江戸期の終わりから木が生えだし、それが序々に広がり、今日のように緑あふるる山になった。植樹が特効薬だったのた。そのための礎となった人である。

西の地車

東の地車

星田神社の秋祭りと地車(だんじり)

星田には、東の地車と西の地車の2台の地車があった。中川を挟んで西と東に分かれて、絶えず競い合った歴史が残っている。屋根や飾りつけなど取り外す精巧な構造になっている。

星田神社の秋祭りは、十月十六日(宵宮)、十七日(本祭)である。

お旅所は、神様が遊びに行かれるところであり、芸などをして、神様にお見せするなどをするところである。地車が妙見川原まで引き出されたのは明治35年が最後である。豊臣、徳川の頃には、村中がそれぞれ2つの勢力に別れた時代もあったという。 若中(今の青年会)の組織がおやっさんを頂点に周施方、五人若衆の代表、一般(平)と組織化されていた、大正八年に青年会ができた。

西の地車は仏式で、中間に区切りがなく、蓮華の金模様がある。(区切りの跡形は、残っている。) 東の地車は、神式である。東と西は、時代によっては、競って小道具を整備することに熱中した。

このため、祭りの前には、東は、西からもらった嫁を、西は、東からもらった嫁をそれぞれ里に帰し、それぞれの計画が漏れないように警戒した時もある。これは明治20年頃の話である。

昔は、西の地車庫は、はたんどにあり、東は、星田神社の北側の鳥居のある口の西側の地車庫と別々に保管していた。

府民の森星田園地と天孫降臨伝説の哮が峰

 府民の森星田園地には天孫降臨伝説の哮が峰がある。高天原(たかまがはら)の天照大神の命を受けた鐃速日命(にぎはやひのみこと)が神器を持って磐のように頑丈な船に乗って降臨し移住したというもので、4世紀初頭の大和朝廷成立以前

に鐃速日命が北九州の方から一団を率いて、当時大和、北河内地方を支配していた長髄彦(ながすねひこ)と戦うべく、哮が峰の西側にある日南(ひなみ)山との間の谷間に宮居をかまえ臨戦体制をとった。その後和睦し連合政権を樹立されたとされる。(平安初期の先代旧事本紀―せんだいぐじほんき)。

鐃速日命は物部氏の祖先とされていて、物部一族は、交野の天野川流域の水田農業技術の指導普及に努め、一帯を良田にした。一族の優良な財源でもあったこの沃野一帯を、蘇我氏(稲目)との対抗上、敏達天皇の后の豊御食炊屋姫尊(とよみけかしゃひめのみこと)に献上して私部(きさいべ。皇后領のこと。茄子作,郡津、私部、寺、森、私市、星田の交野の1,488町歩の地をさす。)となり、豊御食炊屋姫尊が後に推古天皇になると私部(きさいべ)が天皇の米倉である交野屯倉(みやけ)となった。なお、平安時代荘園制度ができると一帯は、岩清水八幡宮の荘園となっていく。地元氏神の総社であった磐船神社は、はじめ祭神として鐃速日命を祀った。

末社であった星田神社でも古宮では、現在でも鐃速日命を祀っている。(平安期に祭神は、住吉四神に変わっている。)

鐃速日命は物部氏の祖先とされていて、物部一族は、交野の天野川流域の水田農業技術の指導普及に努め、一帯を良田にした。一族の優良な財源でもあったこの沃野一帯を、蘇我氏(稲目)との対抗上、敏達天皇の后の豊御食炊屋姫尊(とよみけかしゃひめのみこと)に献上して私部(きさいべ。皇后領のこと。茄子作,郡津、私部、寺、森、私市、星田の交野の1,488町歩の地をさす。)となり、豊御食炊屋姫尊が後に推古天皇になると私部(きさいべ)が天皇の米倉である交野屯倉(みやけ)となった。なお、平安時代荘園制度ができると一帯は、岩清水八幡宮の荘園となっていく。地元氏神の総社であった磐船神社は、はじめ祭神として鐃速日命を祀った。末社であった星田神社でも古宮では、現在でも鐃速日命を祀っている。(平安期に祭神は、住吉四神に変わっている。)

府民の森で星のブランコとクライミングウォールが人気があるが、星のブランコが架かっている北側の山が哮が峰であり、ピントの小屋から見上げるクライミングウォールの右側の岩山の頂上が哮が峰である。なおこの岩山は、昔岩内道といって底部が洞窟になっていて東の岩山から西の岩山のはずれまで人が通れたが、大正末期に石材会社に売られ、以後石切場として石垣用石材として切り出された。クライミングウオールとその周辺は、その跡の岩山である。

哮が峰へは星のブランコを渡りきって少し行ったところの古い脇道から登れる。東南方向に尾根筋がのびていて、奈良県の田原,天の川や私部の町並み、遠くには八幡の山が見え、戦略的な要衝といえるだろう。登りきったところに右図の碑がたっている。登り始めてすぐ白い建物があってその左(北)側にくぼみを挟んで日南山がある。そのくぼみに宮居をかまえた。

向かいの山が哮が峰。右図は星田名所記が描く哮が峰と岩内洞。岩内洞の一部にクライミングウオールができている。

天皇の米蔵三宅(屯倉)は、星田にあった。

                        語り部 西井 長和氏

三宅は、交野、寝屋川、枚方の広範な地域をさすとされているが、吉田東湖の地理辞典に三宅山は、星田村にあり、「茨田三宅の遺構なるべし」と記されている。和銅5年に交野郡が記録に出てくる。仁徳天皇時代には茨田郡の中に、交野郡が含まれていた。星田と高田(こうだ。枚方市)の境、星田の共同墓地の西に大蔵(をふぞう。だいぞう。おうぞう)という地名(小字)が残っているが、ココが三宅の郷蔵であったのではないか

忘れ去られた名勝 岩船峡と鮎返しの滝

岩船街道の岩船トンネルの手前のバス停「森の木」(昔は「鮎返しの滝」といった。)の一軒屋のところに名勝「岩船峡」の石碑がある。また鮎返しの滝は、高さ7mの一枚岩から落ちる滝で、さすがの鮎も引き返すことからの名称である。かっては雨乞いをして効験がないときは、獅子窟寺の賓頭廬仏(びんずるさん)の顔に白粉を塗って、滝の上から吊り下げて、雨を祈るという奇習があったとされている。

岩船峡は、河川の両岸沿いに民家が4~5軒建って、立ち入り禁止の標識が目立ち、昔のように川沿いに歩けない。名勝 岩船峡の石碑は、事実上無用無根のものとなっている。

鮎返しの滝は、石碑のところから入って天野川にかかる橋を渡って、左の民家(人が住んでない模様)の横を抜けて。その道を進めば行ける。しかしこの滝があることを知っている人はすくない。沢山のゴミがたまっている。

折角の風光明媚な観光資源であるが、近くを通るらくようの道と結んでピトンの小屋と直結すれば、府民の森星田園地の目玉になると思っていたが、この道も本年4月から道が荒れて廃止になり、ピトンの小屋の南側一帯は、ルート地図から抹消されてしまった。鮎返しの滝

河内の盆踊りと音頭

昭和15年ごろまで河内音頭の交野節が盛んであって、藤坂に上手な人がいてその人から習った。戦後は江州音頭が流行し、その手拍子が逢うことから、河内音頭交野節はすたれた。

XXXXXさんのお宅には、石川五衛門釜入りの段、春の旅立ち道中日記、天下茶屋の敵討の段,阿漕平冶住家の段,佐渡情話物語、流行歌集ほこりたヽき、ぼーづ落しの段,信田森楠葉子別れの段、崇禅寺宮敵討の段などの音頭本が残されている。

大正のはじめ、こどもと中年と老人が3組に分かれて、外側の輪が左,、中側が右、内側が左と花車が回るような踊りの列は美しかった。

河内音頭交野節は、いつの時代から誰かに引き継がれて復活したのであろう。古い時代の星田神社での盆踊りの輪が今でも思い起こせる。                                    

大谷から西の東高野街道、傍示川の西の山根街道を歩く

大谷(星田6丁目、道路の北側は、寝屋川市大谷)は東高野街道沿いで、関西鉄道(民鉄で学研都市線の前身)開通までは、旅籠などもあって栄えた(語り部西井長和氏)とされる。大谷から東高野街道を西に行くと、入口のお大師さんの石佛(大谷の北の大師堂)に始まり、昔のままの車が片方通行で通れる程度の狭い幅の道が続き、その後にできた幹線泉佐野・交野・枚方線を斜めに横断し、田圃の中の道を通る。山根街道(山の根の道)は、旭小学校の南、高岡幼稚園の北(正門)の前を通って傍示川にかかる橋を渡って住宅街を抜け、コモンシティと大阪病院を結ぶ道路を横切って田圃の中の道を通る。途中山根街道の道標がある。しばらく南側の田圃が低くなっている、高台状の道を歩き、下に流れている谷に橋がかかっているところで平地に下り、その橋を渡って行くと星田ゴルフ練習場の北側の田圃の中にある大谷中のお大師さん(大谷南の大師堂。)がある。そこで先述の東高野街道と合流し、合流した道をさらに西進すると星田ゴルフ場の前の道を横切り、打上、弘法井戸、JR東寝屋川駅に向かう。

昔の幹線東高野街道と山根街道は、現在の幹線泉佐野・交野・枚方線の日陰の道であり、単なる農道としてしか地域の住民に写らない。道路としての存在を全く忘れられた昔の幹線である。しかし、昔の状態がそのまま残されている良さもある。

大谷の大師像(大谷南の大師堂)

右(東)側に大師像、左(西)側に灯篭が並んでいて、灯篭に「大谷子供中」、大師像の背後に嘉永7年(嘉永は6年までで7年はない。)石仏の石は宝篋印塔の塔身だったのか、四面に梵字がある。

地蔵堂と半鐘
大谷(中央の道が寝屋川市との境界になっているが、道の西側で寝屋川市。)のほぼ中程に地蔵堂がある。その御堂の南側に半鐘がつるされている。半鐘に「河州交野郡大谷村地蔵堂什物 弘化3年丙申5月吉日  先祖代々に続き38軒の屋号が刻まれている。」

弘法大師像(大谷北の大師堂)

東高野街道と山の根の道が交わったところにあり、(星田ゴルフ練習場の北側の竹薮の南側。昔このあたりに避病舎があった。)ここから両道は合流して打上に向う。花崗岩の台座に五十番と刻まれている。像の台座(砂岩)の山側に大谷中と刻まれていて、このあたりは,信仰が厚かったところであろう。

山の根の道の道標

弘法大師像から山の根の道を星田に向って500mほど行ったところに道標がたっている。ゆび指しして西向きは、大坂道と示している。東向きは、妙見道と表わしている。南燈明講 何某と刻まれている

明治のはじめの廃仏希釈」で廃寺となった愛染律院と円通寺

星田公園には、平安時代から星田を含む三宅郷一帯が岩清水八幡宮の荘園であったが、鎌倉中期に荘園の鎮守のため、岩清水八幡宮から分霊して新宮山八幡宮が建てられた。また元和元年(1615年)の大阪夏の陣で星田で宿陣した徳川家康が松の大木に軍旗を掲げた「旗掛松」と、北の低いところには神宮寺である愛染律院が建っていた。明治初期の宗教改革「廃仏毀釈」で愛染律院は、廃寺となり、そのとき八幡宮も廃社した。現在石塔(1309年)、宝篋 印塔(1615年)が残っている。

愛染律院

蓮月尼が愛染律院の茶所によくこられました。当時、愛染律院には、覚樹という立派な坊さんがいた。 廃仏毀釈で、整理された地蔵さんが高山寺(岡山県井原市寺中)で健在で、しかも重要文化財であることがわかった。

上の絵は、愛染律院、右は新宮山八幡宮と旗架けの松          (星田名所記)

園通院

中川は、現在は、かなりの部分が蓋われ道となっているが、昔は5つの、石製の橋が架っていただけであった。北から野辺橋、中小路橋(善林寺の南)、斜交(すじかい)橋(慈光寺の北)、除夜の四つ辻の橋(慈光寺の南)、で最後が寺前橋(スーパーニッコーの西側)でそこから上流は川の名前が紐谷川に変わる・。この橋の南側に園通院という立派な浄土宗の古刹が立っていて寺前橋という名前がついていた。廃仏毀釈で廃寺となった。

 園通院  浄土宗。明治はじめの廃仏希釈で廃寺。西北方向に

  東西11間、南北23間。石宝塔。天文11年の石仏 

                        星田村明細書(享和三葵亥)

徳川家康ひそみの藪と2人の道案内人

 正十年六月二日本能寺の変で織田信長が明智光秀の反逆で滅ぼされたとき、徳川家康は少数の近臣を伴って堺の舶来文化を視察していたが、この情報を聞き、信長と長年軍事同盟を結んでいて、身の安全が危ういので、三河に抜け道で逃れるべく、星田に来て、旧知の里正(村長。平井氏)に道案内を頼むにいく間、藪に潜んでいたという伝説があるが、そのとき案内したのは、「しゃみ安」と本名は、不明であるが後年その家の俗称を「けんしき」といい、子孫は、外殿垣内に住んでいた。

家康ひそみの薮

徳川家康宿陣の日の星田

元和元年(1615年)5月5日大坂夏の陣で大坂城攻めのため、徳川家康は、午前9時京都を進発し、午後3時星田の里正〔村の長)平井三郎右衛門清貞宅に宿陣した。一丁四方ある屋敷内の北の方にある建物で、五間四方を高く上げた奥書院を家康のために用意した。平井家では、屋敷を囲む堀でとれた鯉を料理して差し出した。二代将軍秀忠は、先に四条畷市岡山で陣を構えていたが、家康が到着するや、陣屋で秀忠、本多正信、藤堂高虎、土井利勝、安藤重信等と軍略会議を行った。東軍:16.万人のうち、家康の手兵1万5000人は、星田から打上に野営したが、その夜は、豪雨があり、夜襲もあろうかと警戒した。家康の旗印の白旗は、新宮山上にあった松に掲げられた。翌日大坂方が八尾、久宝寺で討って出たので、午前10時に出陣していった。

名所記が描く家康宿営記念石碑と書院