星田村大絵図

星田村大絵図と古資料


星田村大絵図は、縦一八四㎝横一八〇㎝の大絵図((交野市指定文化財。)で、江戸時代につくられたものであるが、製作
時期の詳細は不明とされている。平井家の敷地絵図が描かれていることから、少なくとも文化五年(一八〇六年)以前に作られた絵図ではないかと考えられる。星田名所記は、文化文政期(一八〇三~一八三一年)に春潮亭芦屯氏によって書かれたもので、百数十に及ぶ星田の地名や名所名を戯作風に織り込んだ詩文と二五枚ほどの写生画や場所、施設毎の詩文、替え歌などを交えて描写したもので写真の普及していない時代の記録として歴史的価値の高いものである。前段の地名名所の戯作風詩文については交野町史にも掲載されていたが、二五枚の写生画については、写真のない時代、貴重な記録である。河内国交野郡星田村地詰帳( 以下「地詰帳」という。)は、文化五年の課税台帳、当時の検地帳にあたるものであるが、星田村の領主は八割五分は市橋藩で、ほかに八幡(石清水八萬宮)藩、大久保藩の三藩があるが、この三藩の二一三八筆の耕地を藩別ではなく、当時の小字地名別に土地ならびに従って作られた年貢の課税台帳である。
以上同年代の3つの資料をからませて当時の星田村を見てみる。
平井家の御殿屋敷
大坂夏の陣の時、徳川家康は、当時の星田村の村の里正であった平井家に宿陣したとされているが、大絵図では徳川家康が宿泊した御殿屋敷が大きく描かれている。屋敷敷地内に田三枚と此辺田平井氏屋敷地鋪の内なりの記載がある。
星田名所記が描く御殿屋敷

当時平井家の屋敷は、方一町四方((約10000㎡)、あって現存する神祖行営之碑と家康が宿泊した奥書院の畳三畳ぐらいの上段の間の石積を描いている。なお、堀は、現在でも一部は現存しており堀を挟んで左側は当時の小字地名で外殿垣内(とうのかいと)で御殿屋敷を織り込んだ地名であろう
地詰帳(文化五年)が描く小字「とうのかいと」の年貢額と課税耕地面積(推計値)
地詰帳の小字の「とうとのかい」には下記に記載しているが、一六筆の農家が記載されている。一,三,四行目、最終行と二行目、五行目から十一行目の書き方が異なっているのは、前者の四筆は市橋藩、後者の十三筆は八幡藩の領地で あり、別稿の地詰帳で記

載しているように、市橋藩の場合は書式として太閤検地で使われた書式を使っており、そこでは耕地面積が記載されているが、 八幡藩の場合は、年貢高だけで、耕地面積を記載する方法をとっていない。従って市橋藩は、四筆合計で、耕地面積二反二畝ほどで年貢の石高は三石一斗六升二合であるが、八幡藩は、書式で面積が記入されていないため、耕地面積は、年貢の石高から演算するしかないが、八幡藩の石高合計は、一〇石七斗八升であり、当時の平均的な年貢高である中ランクの田で、反あたり、一、三石.中ランクの畠で、反あたり一石で換算すると面積的にはほゞ一〇反(一〇,〇〇〇㎡)になり、文化二年に記念碑や記念の石積みを作成した後、敷地が耕地化され、文化五年の地詰帳では八幡藩の領地として年貢が徴収されているのであろう。なお、市橋藩の領地は、二反二畝であるが絵図の屋敷内の田三枚( 田三反)がこれにあたるのであろう。すなわち、現存する記念碑は、文化三年に建てられたとされているが、文化五年の地詰帳には耕地となって年貢が徴収されている。
制札場と中川、慈光寺について

正面の高い塔のような建物は、高札場ともいい、おふれなどを表示していた。村の正などの役場などもあって当時の村のまつりごとの中心であった。手前の樹木は、慈光寺のものであり、その左側に中川に架かっているはすかい橋といって斜めの筋が入った石橋が架かっている。.

除夜の四辻橋

現在の中川は、管渠に埋められ道路となっているが、この時代は、橋が五本架かっているだけであった。中川の上流は紐谷川というが、中川の最上流の橋は、絵図の右の中程に園通院という寺が描かれているが、この寺のところに寺前橋という橋が架かっていたのが一番目の橋で、二番目がこの除夜の四辻橋で三番目として左のはすかい橋と続いていた。しかし円通院は、明治のはじめの廃仏毀釈にによって廃寺となり今はない。

慈光寺と琴平宮

慈光寺を描いたものであるが、鳥居があって小さな社が描かれているが琴平宮が祀られていた。この宮も廃仏毀釈で廃宮となり、星田神社に移され、新宮山八幡宮などと外宮で祀られている。
東和久田家と地神さん

星田名所記では地神祠の背後に東和久田家を描いているが、和久田武兵衛家( 東和久田)であろう。  

地神祠は、今日まで田畑を開墾をし、住居を建て、集落をつくってきた村人のご先祖を祀るものとしてつくられてきたもので(西井正和氏)星田名所記では広い敷地で立派なものが描かれている。

上図は交野古文化同好会の機関誌「石鏃」の記事の中での地神さん300~500年の樹木や大木。宝篋印塔の残欠、と札町大師堂もここにあった。
付近に住宅建設が進み、徐々に規模が縮小されていったが下の写真は一五年ほど前の地神さん。
最近になって、札町大師堂を含めて見当たらなくなった。
大師堂

大師堂は、松岳院大師堂という。星田には二四の町会があって、 野辺町 東辻屋町 上口町 札の町 東小北町 東畑所、乾町、半尺口 西中小路町 大谷北 大谷南 慈光寺、光明寺 星田寺の町内が管理する十五の祠があった。四月二一日には、大師講が務められた。この日は町内各家から二~三合の米を集めてつくたん(大きなおにぎりをきなこにまぶしたもの)をつくってお供えをし、参拝者などにふるまった、
星田神社と星田寺、

星田神社の本社と背景として、交野明神、星田寺と三輪社が描かれている。交野明神は、現在星田神社の外宮の古宮のことで仁徳天皇を祀っていて、他の神社の文献から平安時代からあったとされる。
星田寺


宮宅山花岳院として星田寺が描かれている。寺の横に十一面観音堂が描かれている。

三輪社の祠とこれに伝わる伝承
民家の門前にあった祠であるが昭和五〇年ごろまであった。当村で最も古い神祠である

との伝承がある。祭神は大和の三輪山の神を水田を守る神として祀っていたとされていた。ここは昔森であって飲料用の湧水があって、神職は、もともとは大和の三輪山からきた三輪氏が世襲で務めていたが地の有力者があとを継いでいたとされている。場所は先の垣内道の半円形状の道を星田神社の方に曲らずに直進したところにあった
御旅所

御旅所はもともとは、神様が遊びにいったり、神さまに芸をみせたりするところであったが、現在では、星田神社の東西の山車2台が収容されている。絵図では、畠所(はたんど)と呼ばれた薬師寺の傍に壇尻蔵が描かれているが、東の地車を、神社の北側の堂坂(とさか)に西の地車が収容されていた

西の地車は仏式で、 東の地車神式である。中川を挟んで東と西は、競い合って時代によっては、競った。小道具を整備することに熱中したが。このため、祭りの前には、東は、西からもらった嫁を、西は、東からもらった嫁をそれぞれ里に帰し、計画が漏れないように警戒した時もある。
新宮山(星田公園)

新宮山八幡宮

現在星田公園になっているが、荘園時代、交野一帯は、石清水八幡宮の荘園であったが、鎌倉時代、新宮山八幡宮(左の図)が分霊してつくられた。大坂夏の陣で平井家に宿陣した徳川家康が旗を掲げた旗掛け松が描かれている。

愛染律院

星田公園の北側の低いところに建っていた宮内寺であった愛染律院。
個人住宅について
個人の住宅が一八軒ほど描かれている。本絵図が何の目的でつくられたものかはっきりしないが、まとまった資料が乏しく、個別資料からの拾い読みであるが、、平井三郎右衛門、谷九兵衛、和久田武兵衛、和久田与治兵衛、和久田一兵衛、西川徳治郎の各宅は歴代庄屋の中に名を連ね、中井忠兵衛、三セ四郎右衛門宅は、当時の村役人の年寄に名を連ねているが、以上の人達はいずれも苗字の使用をゆるされていたのであろう。屋号と思われるものに菊屋清三郎氏と並んでモメンヤ与右衛門氏が描かれている。当時の星田村は木綿産業の集積地で交野一帯でつくられた綿や木綿は最終的に星田村に流れていたとされているが(交野町史)、その重要な役割をはたしていたのであろう。別稿の地詰帳の豪農中農で、名前が一致する農家をあげれば与右衛門)( モメンヤ)が二八石、与三兵衛( ニシンジョ)が一一石、中井忠兵衛は幼名を中兵衛といい、一九石である。