星田村元禄絵図


元禄10年星田村絵図

交野市には元禄一〇年星田村絵図と天保一四年星田村絵図があって、どちらも交野市指定文化財として指定されている。絵図 は当時の村役人などによって造られたものであると想定され、当時の単なる記録や描写などに止まらず、当時の行政課題や、社会的な分析、計画などを表現しているのではないかと 思われることが読み取れる。

道、河川、池

元禄一〇年星田村絵図(以下元禄絵図という)では、内容が理解しやすいように、絵図記載の文字だけを記載した概念地図を複写版として作成し掲載している。以下これに従って概略を見てみる。

東高野街道、山根道などの道路、中川、東(妙見)川、不おじ(傍示)川などの河川。中川沿いにあった上の池、中の池、今池、妙音池、川尻の池などの今日でいえば当時の

主要インフラが描かれている。

道は東高野街道街道と山根道は、絵図の南西の角付近の打上村(現在寝屋川市)までは共通で一本の道できていたものが、星田村に入ると道が分かれ、東高野街道は北向きに隣村である寝屋村との境界線に沿ってしばらく歩き、一里塚として二本の松が描かれているところを越えて、天野川を越え私部村に通じている。また山根道は若干東寄りに分かれ深谷川の上流を越えて描かれているが、この道はけもの道を起源とする古くからの広域の道であるとされているが、梶か坂の山を越える古道のことであるが、この絵図では西の村の道(中川の西側の道)から村の中央の慈光寺付近に架かるはすかい橋を越えて中川沿いを進んでいて、ひがし川(妙見川)を越えて天野川の私市橋を渡って私市村に通じている。この西の村の道から西に向かい寝屋村に通ずる道が描かれているがこの道も山根道とも呼ばれていた。中川沿いの砂田の橋から川尻の池の北側を通って東高野街道に結ぶ道も描かれている。

川は、不おじ川(傍示川)中川、ひがし川(妙見川の前身)が流れているが、不おじ川(傍示川)は、現在の傍示川と異なり後述するように流路は東よりの高岡山の東を流れていたことになり(古代の傍示川、)、元禄時代以後に現在の傍示川の形に西周りに降雨時の放流バイパス河川として新たに掘削されることになる。(西周りの傍示川)

池は中川とその上流の紐谷川沿いに上の池、中の池、今池、妙音池、川尻の池が描かれている。妙音池は、鎌倉時代に新宮山八幡宮の放生池として作られたとされており、紐谷川沿いの上の池、中の池、今池は、上の池が江戸初期

の絵図に新池と書かれていて、他の池はそれよりも古いのであろう。中の池は、現在でも富士浅間大日如来を祀っているが、絵図が作成される二〇年ほど前の延宝五年(一六七七年)に富士浅間神社で開眼供養を行ったとされており、そのことから浅間堂の池とも呼ばれ、現在の全現堂池の名称に通じているのであろう。上の池と中の池は、土砂の堆積が進み間の堤防がなくなり一つの池になり、今池は昭和三〇年代に埋め立てられ住宅地になり、現在は全現堂池だけの一つの池になっている。川尻の池は、現在の府道交野久御山線沿いの交通慰霊塔付近にあった一反程度の池でかっぱが住んでいるという伝承があった。

星田大池一町三反との記載がある。この池の創設は、寛永十四年(一六三七年)にこの池についての村の記録があり、これ以前とされている。この池は、従来の中川が山中の豊富な山水を避け、盆地状の狭い範囲の樹木草原などの保水力や湧水、伏流水を源水とする川であったのに対し、地獄谷川やぼって川の山水を直接受け入れようとするものであり、このため高岡と楯石、梶が坂の丘陵地に標高七十mの高い位置に堤防を造ってそこから自然勾配を使って給水するものであり、従来の中川が降雨時の水位が高い時でもせいぜい四十m内外であったのに対して、現在のJR星田周辺では四五m から五〇m の高さが必要であり、北星田地区をはじめ御農、布懸、玉江など従来から牧場に使われていた土地も含めて灌漑用水の供給が可能になり、農耕地面積を星田全域に広めることになっていくことになる。

星田大池は、初期段階では図のように銀杏の葉っぱ状の形をしていたのであろう。その後池の拡幅のため、高岡山などの丘陵を取り崩し堤防を嵩上げしていった結果、水位が高まり現在の方形に近い形になったのであろう。

不おじ川あれ、東川あれ

不おじ川(傍示川のこと。)あれ東西九六間(一七五m)南北七七間(一四〇m) 東川(妙見川)あれ東西二〇〇

間(三三六m)、南北三三間(六〇m)の記載があり、傍示川、妙見川両川それぞれに二~二.五ヘクタールの荒れ地(洪水被害地)が描かれている。星田村役場保管の古記録で元禄十一年四月一七日の御普請人数の覚えとして大池堤の砂止一七〇人、同五月一四日三六七本、枕木七村より出し候.内五〇本山門、二五本大池堤、二〇本行人堤、一〇〇本ほうじ川とあり、このあれの復旧工事のことであろう。特に不おじ川あれが星田大池の南側にできているということは、元禄絵図の時代は、傍示川は星田大池に沿って現在の細川が構築されているところを流れていたことになり、高岡山の東側を流れていたといえる。この付近にきつね川という川があったとされているがきつね溝などは傍示川の別称であろう。

不おじ川(傍示川)

傍示川は絵図では不おじ川といわれている。古代の傍示川と西周りの傍示川(まんだ七二号和久田薫氏)は、傍示川は古くは高岡山の東側(現在の細川が流れていて星田大池のそば)を流れていて、西周りに現在の傍示川の形につけかえられたという説である

が、元禄絵図では古代の傍示川の形で描かれている。これを見てみると、絵図では川すじの山根道の下流に不おじ川弐百六拾七間(四八六m)の記載がある。この長さは、傍示川は下流で寝谷村になるとタチ川と名称を変えるが、それまでの下流の距離にあたる。従って山根道の上流の一見現在の傍示川と見える川すじは、絵図では傍示川になっていない、。この川すじは上流の左岸は鬢皿谷、右岸は星の森などの短い源流域の川(説明の便宜上、仮称で鬢皿星の森川と称しておく。)である。他方星田大池に接するところに不おじ川(傍示川)あれが描かれているので、このあれ(氾濫池)は、当然傍示川沿いにできると考えると星田大池の南に近いところを流れていたことになる。現在は傍示川から雨天時以外の雨水量が少ない時に星田大池に流す細川が千m近く構築されているが、細川ができる以前に傍示川が流れていたのであろう。従って傍示川の上流はこの川であろう。元禄絵図では、以上のように不おじ川が星田大池の方向に北進していたが、その後の時期に傍示川を西周りに鬢皿星の森川に結ぶ形で新規掘削して現在の傍示川を降雨時のバイパス放流河川をつくり、他方晴天時など水量が少ないときの星田大池への流入溝として細川を構築したのである。

星田村の領主と領土

星田村の領主は、市橋藩、八幡藩、大久保藩の三藩の宿藩制であるが、その領土が記載されている。これによると八幡藩の領土は二か所あって一ヵ所目は、現在のJR星田駅周辺であり、二ヵ所目は、平林付近で中川の西側あたりである。大久保藩の領域は北星田地区のJR星田駅の北側で茄子作村寄りのところである。大久保藩に対する知行については、貞享四年(一六八七年)に大久保藩に先だって永井藩に一〇八石の知行が行われ、その後に大久保藩に移藩されたものである。八幡藩に対する知行については、古く文禄三年(一五九四年)に豊臣秀吉が石清水八幡宮がかって星田ほか私市部(きさいべ)一帯を荘園にしていたことから太閤検地で八幡藩に対して朱印状を交付して一二〇石の領地を与えていた。その位置は印字山(現在の妙見坂二~三丁目付近で地名の由来は、朱印状が交付されている土地の意)坊龍(坊領で新宮山八幡宮の宮内寺の愛染律院の領地の意)などであるが、歴代徳川政権もこれを承認し、双方に交付したいずれも八石あまりの朱印状が残されている。残りの領地も時代背景からして中川の東側であったろう。現在のJR星田駅周辺は、星田大池からの給水がはじまる以前の耕作地としては、不毛の地であり、綿花栽培が限界であって、古くからの領地としては考えられない。星田大池からの通水によって大久保藩ともども八幡藩についても絵図で描かれているように中川以西の新領地に領土替えが行われたのであろう。

田畠の開発。水田化

元禄絵図では村中の地域ブロック別に田あるいは畑の耕地状態を表示しているが、星田村では江戸時代初期の寛永年代(一六三〇年頃)頃から新田開発がされていて、その頃から星田村の記録に星田大池の名前が登場し、星田大池の築造は、新田開発の中心課題であったと考えられる。元禄絵図では、一里塚の東側に「田他  東西一三丁(一四五〇m) 南北九町 (九八一m)」の記載がありまた御殿屋敷の東側に「田  東西四町(四三六m) 南北町五〇間(一六〇m)」の記載があるが、前者の東西一五〇〇mは、中川から寝屋村との境界までの距離であり、南北一〇〇〇mというと星田駅周辺から茄子作村との境界付近までの距離であり、星田村の中川以西の全域のことであり、かつては標高が高い地域で中川からの用水供給をはじめ利水条件が悪く星田牧の牧場で使われていた地域の田畠開発を示している。後者は中川以東の 水田先進地帯のことであるがこの四四〇mと一六〇m七㌶の規模は、小字の一~二個の面であり、従ってこの両者は、前者は中川以西の星田村の新田畠の開発を後者は中川以東の新田畠の開発を示しているのであろう。

神社  星田神社、新宮山八幡宮、妙見山龍降院

寺  星田寺  光明寺  薬師寺  善林寺  慈光寺  光林寺

園通院

中川に橋が5本架かっていたが最上流の橋を寺前橋といったが 、その南側に橋の語源となっていた立派な浄土宗のお寺であったが明治5年の廃仏毀釈で廃寺になった。中川は寺前橋から下流で、ここから上流は、紐谷川といった。

松丘庵

愛染律院の末寺であった。現存する松丘大師堂の東側にあった。  

大念庵

慈光寺の末寺