明治の測量地図が語る星田

明治二二年測量地図から見た星田の高低地形

明治二二年測量の地図であるが明治三二年開通の現在のJR学研都市線の前身の鉄道が記載されており、当時の陸軍参謀本部の測量となっていることから、枚方砲兵工廠への引込線建設などのために後になって印刷されたものであろう。星田村の全般的な地形は南高北低、西高東低で西側の寝屋村(現寝屋川市)から東の天野川にかけて若干傾斜勾配になっている。

星田村の集落は、標高で三五m~四五mの高さであり、中川からの給水範囲は、降雨時の嵩上げ水位を加算しても四五m内外であろう。しかし現在のJR星田駅周辺の北側の標高は五〇m以上であり、中川からの用水供給は不可能である。星田大池は、標高七〇m以上のところに高岡山、楯石、梶か坂の丘陵部を掘削して堤防が造られ、星田山中の地獄谷、ぼって両川の豊富な水量を貯水した池であるが、この池からは、現在のJR星田駅周辺をはじめ北星田地区全域にかけて自然の勾配によって給水を可能にするとともに、村内の田畠の平均水位を高めるのに役だったのであろう。星田村の用水溝として紐谷川、中川から天の川までの小山台溝と星田大池から茄子作、私部との境界の中島溝といはれる。小山台溝は、紐谷川沿いの二つの池は、元禄絵図では三つの池、上の池、中の池、今池が描かれていたが、上の池の土砂の堆積が進んだ結果一つの池になったもので、中川沿いの池は妙音池である。

星田の水系



中川

中川の上流は、紐谷川で、紐谷川の源流は、山中というよりも紐谷、平野、初項などの、地獄谷川、妙見川などの河川との間の境界尾根がつくる盆地状の谷間が源流で、山中の水は伏流水や湧水で流入する程度でむしろ山中の水の直接流入を避けた川筋である。従って水流が穏やかで管理がしやすいため、古くからこの流域で水田が開け、人が住みだした。

妙見川

妙見川の源流は、小松山の東斜面であり、小松山の北斜面は地獄谷川水系になる。

妙見川は、途中菖蒲の滝があり、そこから上流は小松谷川といって小松山の東斜面から南斜面の山水を受け入れている。

地獄谷川

地獄谷川は小松山の南斜面を源流とする川である。現在のルートでいえば南星台4丁目にある電気通信グラウンドの西の谷筋が萱尾八丁の坂道といって、小松寺参道の主力道であった。。

西谷

三方が尾根筋に囲まれており、東側は、逢坂道尾根筋、南側は隣村(田原、中野村。現四条畷市)との境界尾根道、北側は尾根道であるが、その間の山中の谷筋が西谷であり、西谷の水はすべて久保池に集められ、打上川を流れて隣村の水田を潤している。

明治18年および明治41年の地図から見た傍示川

テキスト ボックス: U 傍示川は、元禄絵図では古代の傍示川として地獄谷川とぼって川が合流した後に、高岡山の東側を星田大池に沿う形で流れていて、天保絵図では、鬢皿谷星の森川を結び、現在の西周りの傍示川の形で新規に掘削してつくられた川であるとしたが、上段の地図は明治18年測量および下段は明治41年測量地図で西周りの傍示川は、先代の傍示川の代替機能のため全く新規の掘削によって造られたものであることがよくわかる。地図に土手で描かれている川は、西周りの傍示川であるが、

テキスト ボックス: U地図の等高線は山や尾根筋の場合はV字型で川や谷筋の場合は逆V字あ テキスト ボックス: Vるいは逆U字の形で描かれる。山や尾根筋の場合は周辺より高度が高く、川や谷筋の場合は周辺より低い高度のため地図では必ずこのような地形でえがかれる。地図の土手で描かれた傍示川とその周辺の等高図を描いたものであるが、両地図とも傍示川の上(東側)に沿って逆U字の地形が沿っておりその最低点を結んで太い線が描かれているが、

傍示川の位置が地形の最低点の西側にずれていて、傍示川は自然の川でなく人工的に掘削し、築堤して造られたものであるということが判る。また築堤は明治18年の地図の場合は2重になっていて、2段階で後に増強して造られた可能性がある。

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