星田村天保絵図

天保十四年星田村絵図

小字地名と灌漑水路

天保の絵図は、星田大池の建設が進み貯水量が多くなってきた。同時に村内では灌漑設備、水路や水路を調節する樋が各地で整備されてきた。別掲元禄絵図に比べて灌漑水路と小字名の記載が充実している。一般に小字は農道(里道)と水路が小字境界になっていることが多い。星田大池が元禄地図では1町3反の大きさで形は銀杏の葉風であったのが、天保の絵図の形は方型に近くなり、高岡山の掘り起しと土手の築造が進んでいることがうかがえる。確かな時期は不明であるが池の大きさは、最終的には4倍の6町(六㌶)まで拡大している。六㌶といえば甲子園球場の敷地の一.五倍の大きさである。

高岡山を削って土手を嵩上げし、池が大きくなってゆくと同時に一方河川や灌漑水路の布設整備が進んできた結果,畑作地から水田化が進んできた。小字地名は、地詰帳(検地帳ともいう。)や村役人などが年貢の徴収のため作成する名寄帳といって年貢の徴収台帳に記載されている田、畠の種類、耕地面積、生産石高、耕作地などが記載されているが、ここ使われる地名が、地域毎に煮詰まってできたのが小字地名であるといわれている。畠作主体の場合は、作物の数も多く、いろんな地域間の事情も異なり、多様化している。灌漑施設が整い、水田耕作が増えてくると一反当たりの生産石高という評価基準が単素化され同一ランクの地域が合体しやすくなり、また耕地整理なども行われて、小字の単位面積が広がり、その分小字の数の減少をもたらしたのであろう。その結果六十以上あった小字の数は明治初期には30ぐらいに半減することになる。従って天保絵図では、灌漑用水や小字地名の成熟化普及が進んで小字地名の記載が詳細になっている。

灌漑施設の根幹施設は普通、小字の境界に沿って里道とともに水路が設置されるが、絵図の水路と昭和二〇年頃村役場で使われていた小字地図(交野市史掲載の全図)と比較すると八~九割かた出来上がっている。

地獄谷川、ぼって川、満願池

絵図の上部にへびが口を広げたのたような川筋が描かれている。へびの胴体部分は、傍示川で、上あごの部分はぼって川で下あごの部分が地獄谷川である。ぼって川と地獄谷川が合流する手前にぼって川の水門樋、地獄谷川のろうけ水門樋、なるとび水門樋は降雨時には傍示川、晴天など通常の水量時は星田大池への貯留する細川に流す樋であり、傍示川は降雨時のバイパス河川として地獄谷川とぼって川の下流といえる。元禄十年星田村絵図では星田大池がある高岡山の東側を流れていたが、天保十四年絵図では西回りの傍示川はできあがっている。

降雨時上流の妙音池などがあふれていて受け入れる余裕がない場合は中川下流の野辺橋、砂田の橋あたりまで、その付近で絵図で中川沿いに半円形に設置された水路や龍越樋、寺ちか樋、砂田伏越樋、下藤尾樋、中藤尾樋、西之内樋などのスイッチ状に設置された樋で、東の部落、西の部落に分けて送水し、それぞれのため池で貯水したのであろう。砂田伏越からは川尻池越樋を通じて西の部落に藤尾樋、西の内樋などは、東の部落に送水したのであろう。

傍示川とぼって川、地獄谷川

満願池と万願池が大きく描かれている。位置はこの地図ではわかり難いが明治初期の堺県星田村絵図では具体的に小さく描かれている。この場所は、星田山の中腹のぼって川沿いにあって、ぼっての滝の少し上流で、星田山は、頂上は馬が峯、前峯に一蓋被(いちがいかぶり)があるが、丁度そのぼって谷側の麓の位置にあたるが、立地的にみると自然にできた池でなく、人工池で利水というよりも池の大きさからみて調整池として造られたものと思われる。明治末期に星田新池が築造されるが天保絵図で描かれている水門樋は、明治初期の地図にも同じところに水栓として描かれているがこれは連動して貯水池の役割をはたしていたのかも知れない。明治初期の絵図から多分土砂が堆積し、機能面では劣化していて、明治後期になって、完全完結型の星田新池の築造になったのであろう。なお、ぼっての意味は、深い谷を意味するが、この萬願池が地名あるいは谷名の語源であったとも考えられる。

なお、紐谷川の上流が東川(妙見川)に接近しているが、交野市史によると享保七年(一七二二年)に中川の上流の紐谷川の源流域の開墾が進み、上下流の農民間で、庄屋の辞任を巻込んだ水争いが起こって、双方自粛するということで決着をみているが、はたして精神論だけで完全決着をみたのか、このあたりで、妙見川の水を紐谷川に流すことなどが解決の糸口になったのではないかと思われる。