明治初期の実測絵地図(堺縣管下河内国大三大区九番領星田邨萬分之六図)が語る星田の山

明治初期の実測絵地図が示す星田村である。星田村は、平地面積を超える山地面積を抱え、この山中から中川、妙見川、地獄谷川、ぼって川、西谷の五つの水系が流れていて、村の東側には天野川が流れていた。星田の村は、このように豊富な山水が流れていて水は豊かなはずであるが、星田の語源は干(ほし)田ともいわれていて、中川以東は、天野川、中川を源水として古代から水田が開けてきたが、中川以西の地は、地盤が高いところにあり、中川を主源流とした水は現在のJR星田駅周辺など地盤が高いところには届かないこともあり、また、星田の山からの山水は、短い流域で麓まで二〇〇m近い高低差があって、流出勾配が高く、また花崗岩主体の土質で土砂の流出が激しいこともあって、川筋は大抵は天井川ができていた。以上のように中川以西の地は、利水条件に恵まれないことから、星田牧という牧場に使われたり、あまり水を要求しない綿花栽培が盛んであった歴史がある。中川の上流は紐谷川で、紐谷川の源流は、妙見川と地獄谷川の間の狭い範囲の盆地状に広がったところの樹木草原地帯が源水である。、星田山中の豊富な水は湧水で流入する程度で、天然の樹木や草原の保水力と中川沿いには鎌倉時代にできていたとされる妙音池や江戸初期にはすでに築造されていたとされる上の池、中の池(全現堂池)、今池などの貯水力に支えられてきた。この安定した中川の流れに対して、妙見川、地獄谷川、ぼって川の山中からの本流の川は、たいていは天井川となり、放流河川として造られた傍示川などで山中の川水を下流へ放流してきた。しかし交野市史では、享保七年(一七二二年)中川の上流域である紐谷川での農耕地の開墾が進み、樹木草原などの自然の保水力が破壊され、上流側の新規の開拓農民と古くからの実績をもつ下流側の耕作農民との間に紐谷の利水について庄屋の責任辞職をも巻き込んだ争いが起こり、上下流の双方の農民がそれぞれ自粛するということで決着をみているが、紐谷川や中川の源流にも限界があり、このあたりから妙見川の水を紐谷川へ流す措置がとられてきたのではなかろうか。星田大池は、江戸時代の寛永の頃(一六三〇年、三代将軍家光の時代)には星田村の記録に登場してくる。この池は、楯石、高岡山、梶ヶ坂という地盤の高いところの標高七〇mぐらいのところに池を造り、五〇mぐらいの高さの現在の星田駅周辺にも水が送れるようにし、明治末期に築造された星田新池はこの初期の地図では、全く姿は見せず、むしろ天保絵図で大きく描かれていた満願池の名称だけが記載されているのは明治初期では、満願池は、土砂が堆積し、池の姿が小さくなったのではなかろうか。また将来星田新池が築造されるぼって川のあたりに水栓が描かれている。この水栓の役割は降雨時の河川水量が増えたときには、バイパス川である傍示川に放流し、晴天のときなど通常時の水量の時は星田大池に流入する細川に流すための樋のことで、この水栓は天保絵図でもすでに同じところに描かれている。

星田のはげ山と繁り山

この絵図の原図で気付くことは、星田の山は、はげ山が目立つということである。原図では山林、藪、砂山、岩石などの山の状態を合印(凡例)で示している。樹林地帯は妙見山と絵図で若林と描かれている若林山だけが目立っているが、妙見山は昔から縄文の森といわれていて樹木は古くから保護されてきたところであるが、若

林山は、現在の府民の森星田園地のピトンの小屋の北側の山で冒険の森に向かう道沿いに樫くぬぎ等の古来からの天然木ではなく杉檜などの植林種の大木が谷川(南谷)を 越えて広がっているところがあるが、その左の山全体が現在でも杉檜などの植林種の樹木

が多く植わっている。星田の他の山中でも星田山頂上など府営林として、随所で杉檜などが植林されているところがあるが、これらは日露戦争戦勝記念林で明治中期に植えられたものであり、若林地区はこの地図に記載されていることから明治初期にすでに植林されていることになる。歴史的には江戸時代天明期(一七七八年~)に星田出身の吉田屋藤七という人が幕府に治山治水のためには植樹を進言して功績をあげたという史実がある。明治初期にも多く植林がされたという話があるのでどこまで遡か不明であるが、若林山は古い植樹林である。星田のはげ山についてはこの絵図の拡大版で見てみると岩石、砂山、藪地が目立つ。若林山の右側、この拡大版絵図の右中央のあたりに、堂跡、鐘堂、堂跡嶺が逆さ文字で描かれているのは小松山であるが、逆さ文字については後に詳述するが、小松山を中心に周囲の山が白っぽく描かれていて、山林が少なく、はげ山が多いのが目立っている,星田の禿山は、小松寺の前身は天台宗の学徒が創建した荒山寺 (七一二年)であるとされ、この当時一帯は樹木が一本もない荒涼たる岩砂山であったことから、このような寺の名前がつけられたとされ ている。また、元禄十年星田村絵図でも小松山付近から禿山で描かれていて、天保十四年星田村絵図ではぼって谷以東は禿山、以西は繁山と書かれていて、ぼって谷以西の西谷水系は打上村の飛地となっている久保池に流入する水系であり、水利権が打上村に属する関係で樹木の扱いが異なっていたのか繁り山で残っていたのであろう。

今日中東の化石資源に依存している現在に比べて、樹木は当時としては樹木資源に加えて貴重なエネルギー資源であって、星田ではげやまが多いということはこれら資源を有効に活用していたのではないかと考えられる。星田村の人口は明治二十二年に全国的に市町村の大合併が行われたがその時まで北河内で一番人口が多かった。その時の星田村の戸数は三七七戸で、江戸時代から町制を敷いていた守口町が一七七戸、枚方町がその時の町村合併で、三矢、泥町、新、枚方、伊加賀の合併で六三〇戸になり、北河内で一番になった。星田大池の築造によって山中の豊富な降雨がもたらす水資源が活用できるのと同様、星田の山地は、一種のエネルギーを含む樹木資源の上から地の利をえていたのではないかと考えられる。石清水荘園時代には、御料地の中には山岳地を含んでいたとされているが、山地は、水田をはじめ耕地と並ぶ貴重な資産資源地であったのであろう。

星田の山のルート。地名についてこの明治初期の実測絵図の合印(凡例)のうち山林、藪地、砂山、岩石などの環境表示部分があるが、当時これらの記号を今日のように主に環境表示とみるか、あるいは、資源の利用の観点からの表示で描かれているともとれるが、この絵図からこれらの記号を抹消し、地形、文字などが見やすいように改造した絵図を本稿はじめ各所で用いている。この絵図は萬分の六の実測絵図であるが現代の地図のように山の高さの表示は、等高線で表示するのではなく、形を視覚的な山の型で表現している。等高線の地図の場合は、一種のデジタル表現で、見る角度で変わりなく常に正確な高さが表現されるが、これを立体的にみるには等高線についての知識と解読するための訓練が必要であるが、この絵図の場合は山の高さを視覚的な山の大きさで表現している。その結果被写物である山岳地帯を写真で写したように、中空から航空写真で写したように見える。星田の地形は南高北低であり、北側から山地を見た場合は写真で写したようにうまく表示ができ、また星田村の南側と西側との境界線は隣村との境界が尾根筋になっていて、この場合写真を写すように立体的な姿を完全に表示できる。他方村の東側は、天野川あるいは、当時別村であった私市村であって天野川の場合はすべて低地というか窪地になっており、私市村との境界筋も複雑で一筋縄ではない。この画法の可能な地形は立体的な凸部分だけであって、凹部分の描写の場合は何らかの配慮をしないとうまく描けない。この画法は凸部分は写真で移したように明確に表現できるが、山などの凸部分の裏側を表示することができないことである。この場合は、部分的に視点の向きを変えて描くことにされている。星田の地形は、南高北低でほとんどの地域は北から南に向いた視線で写真を写す形で描いているが、村の東側の天の川などとの境界付近は、哮が峯、岩内道、日南などの一帯は、東から西向きの視点で、妙見山、石橋などの周辺は、西から東向きの視点で描いて、凹部分の裏側の表示をしていて、地域的にアナログ対応をしている。この場合、対応地域内の地名などの文字や樹木などの図がそれぞれの視点に合わせるように西あるいは東向きの文字で傾いて描いている。名所史跡の場合は形を表現するのに最もふさわしいアングルで方向がとられたのであろう。小松山の場合は、当時は、昔七堂伽藍があった懸崖の石積みや南の大門の登りの道の石垣が残っていたので、南から北向きの視野でとらえたかったのであろう。従って小松山の場合は、北斜面は、北からの視点で、南斜面や頂上部分は南からの視点で描かれている。このために堂跡、鐘堂は、逆さ文字で描かれている。

以上のように地域的に視点を変えるアナログ対応地図の場合、二つの視点が合異なる地域の周辺の定点の位置は、連続性がくずれて、空白地帯をつくり、完全な補正は困難で、地図を読む側が空白地帯を埋める必要がある。東視点と西視点で、全く正反対の場合は、鏡を見るごとく地点のずれは一〇〇パーセントのズレの補正が必要であり、東視点と北視点の1/4回転の場合は、1/2のズレの補正を地図を読む側で行う必要がある。

次の図以下は、地形やルートが見やすいように合印(凡例)部分を抹消した絵図で①星田山地区 ぼって川水系、  ②小松山と地獄谷川、妙見川水系、  ③日高山山系と西

 

谷水系、久保池、  ④府民の森星田園地・哮が峰・鮎返しの滝の四つに分けて説明する

星田山地区 ぼって川水系

星田山は、頂上が馬が嶺で東西の山すそにぼって谷となすび石の谷の両谷がはさむように流れ、麓で合流した川である。割林地区は薪材の調達地で、早刈は肥料草牧地であったとされている。明治末期にはぼって、なすび石の両谷の合流する手前に星田新池がつくられるが、そのとき、旭の山を二つ取崩し、上流に運び土手を造ったが、絵図ではこの旭の山が壁になっていて、

ぼって谷に描かれている水栓によって両谷が合流したぼって川は、さらに小松山を源流とした地獄谷川と合流し、降雨時には、傍示川、晴天時は星田大池に流していたのであろう。なお、天保絵図では満願池のところに大きな満願池が描かれていて、その頃は、調整池としての役割をはたしていたのであろう。満願池は、多分土砂が堆積して機能は縮小してきたので、明治末期に星田新池築造に着工されることになったのであろう。昭和五四年建設の表示の堰堤が現在は土砂で埋まっているが、満杯になるのに多分二十 年はかからなかったと思う。

山道は麓から前峯の一蓋被までは、山道が二~三本描かれている。登り一本調子で比較的なだらかな尾根道である。

馬が嶺

星田山の頂上にあたる。一蓋被からは馬が嶺の名が語るように馬の胴体のようにずんぐりとした頂上域を形成しているが、頂上からの展望はきかなくて、一帯は、檜杉などの人工植林が広がっている。

一蓋被(いちがいかぶり)

星田山の前峰にあたり、ここまでは登りの尾根道が続き岩の上からの展望は最高である 被蓋は布団のことであるが、なんとなく布団を伏せたような形の大岩のことをいっているのか変わった名前である。

聖滝

生駒山系の三滝にあげられる名滝である。図ではなすび石の滝が描かれており、大きななすびの形をした石があってこのように呼ばれていたが、なすび石は処分され二~三〇個の庭石になったという。 

蝙蝠岩

絵図が描いている蝙蝠岩は現存している。蝙蝠が羽を広げた形をしていて、倒れた大木 に横たわっている

五段滝 

なすび石の谷の上流にある五~六mぐらいの五段に落下している小谷である。

拂底滝

萬願池の近くの滝で、萬願池から滝の落下音が聞こえる距離にある。

萬願池跡

地形的に拂底滝の下流で萬願池があったと思われるとろであるが、ぼって谷は植林種の樹木が広がってきているが、池のあったところはむしろ土砂が堆積してたかくなっている。元禄絵図から起算すると二〇〇年を超える歴史の重みである。

ひさごの淵

なすび石の谷の上流にあった瓢箪の形をしていたから、ひさご(瓢箪)の淵とよばれていて、この池は、深淵で、かれることは一度もなく、波をたてず、静まりかえっていた姿は凄絶であったといわれ、名所であったが、現在ゴルフ場の調整池として使われている。星田山の東斜面の地名を池ノ内というが、その語源となった池である。

小松山と地獄谷川、妙見川水系

このルートは小松寺(廃寺)への参道や戦国時代の小松城への登城ルートであったため、それにかかわる地名や道の名が残っている。地下下は、現在の星田新池の北側付近で地獄谷川沿いの萱尾の道を通って中ノ山、吉本山のふもとから小松寺廃寺に通じていた。現在の地形にあてはめると、京阪バスの星田七丁目から南星台四丁目に通ずるバス道に沿って左側に尾根道があって現在でも南星台住宅の大きな調整池までかなりの部分が残っているが、これが絵図の宗円転(宗円ころり)を通る尾根道であり、またバス道の右側は今日傍示川と呼ばれているが正しくは小松山を源流とする地獄谷川で、またこの川には昔茅葺き屋根に用いる葦などが生えていて、萱尾と呼ばれる谷筋が吉本山から深く入り込んでいた。この道は、萱尾八丁の坂道と呼ばれいたが、星田からは小松山参道として最もよく使われた道である。

また小松寺へは、妙見川(江戸期は東川と呼ばれた)沿いを登り、菖蒲の滝から先は小松谷川と名称を変えるが、この川の沢道沿いを進むと小松山の東面に通じていた。

廃小松寺については、別項を設けているので、ここでは省略する。

北の小門遺跡

小松山の外にあり、唯一現存 する北の小門の石積み(上)と礎石群(下)。しかしこの尾根道は、長年の風雨にさらされ、痩せ尾根になっており、元は尾根筋にあったと思わ

れる数多くの礎石が尾根の麓付近に転がっている。

萱尾八丁の坂道

傍示川の上流の地獄谷川は、昔萱葦が多生していて川筋にそった細長い小字を形成し、名前を萱尾といったが、現在では絵図の中ノ山と吉本山の間に大きな擁壁が造られており、両山の麓を歩いて、大阪電通大学のグラウンドの西側の谷筋を南に進み、途中から尾根道に移り、この道は北の小門に通じていた。北の小門をくぐり、西の大門から小松山に入ったが、星田の村人が一番よく使った道とされている。

菖蒲の滝と梯坂の滝

絵図では二つの滝が描かれているが、下の滝は梯坂ノ滝で上の滝は菖蒲の滝である。梯坂の滝の右側のぎざぎざの道は、梯坂の道であり、強い登りの七曲がりの道で、はしごに喩えられたのであろう。馬木の嶺から北の小門を経て、茨尾の頂上から西の大門をくぐった。菖蒲の滝からのもう一本の道は小松谷川沿いの沢沿いに小松寺に通じていた。なお、梯坂の滝は現在堰堤に変わっているが、七曲がりの梯坂道は、石堤の流入谷沿いに残存している。(写真の下図。)

小松谷川沢路

妙見川は、菖蒲の滝から上流は、小松谷川と名称を変えるが、小松谷川に沿った道は緩やかな登りの沢道で、想定図が描くように小松山の東斜面に通じていた。

宗円転(ころり)とその尾根道

宗円ころりとは、室町時代応仁の乱の頃に、小松寺の貫主であった 宗円が 険路であるこの場所で、誤って谷底に落ちたが、首にかけていたお地蔵さんのお守りのご利益で一命をとりとめたということが評判になり、この地を宗円ころりと呼ぶようになった。この参道は絵図の妙見川の大宅山から始まっている道で(現存)途中から最初に述べたように、萱尾沿いの尾根道で地下々にも通じていたが、大阪電気通信大学グランドの造成によって中断されている。

北山師岳(東岐)

標高二七〇m。小松山以南の地がゴルフ場になる以前の小松(小字)の地は堂跡嶺の二八四mが最高峰で、小字内の半分以上の嶺が二七〇m以上で屋根地帯を形成していたが、ゴルフ場になって、里山からはずれている。現在北山師岳が最高峰となっているが、絵図では東岐と描かれている山である。

地名に残る小松寺(廃寺)、小松城

八丈(初項)は現在の南星台四丁目付近で小松寺から丁度八丁の距離にあるため八丁がなまってつけられた地名である。菖蒲の滝の上流付近から小松寺のあった小松までの地名を菖蒲が滝(龍)という。これは、小松山の坊僧達が、この付近に薬草として菖蒲を植えて副業としていたからこのように呼ばれたのである。

小松山の南に門口、傍示川のところに鎧坂の地名がある。小松山は、南北朝時代には和田氏が居城に使ったことがあったが、戦国時代には、河内地方でも、守護であった畠山氏、安見、三好氏などの戦国大名や武将が高屋城、飯盛城などに居城し、下克上の時代を推移したが、小松寺も一時畠山の武将であった遠藤昌親が小松城の領主となって交野地方を治めることがあった。これらの地名は、その名残りで、鎧坂では鎧をつけた武士達が往来したのであろう。

日高山山系と西谷水系、久保池

星田の里山(府民の森を除く昔からの自然が残されている山)のうち西側の日高山山系は東側は逢坂道の尾根筋、南側、西側は逢坂、岡山、打上などの隣村との境界となっている尾根筋に周囲を囲まれ、その中央を中尾尾根が南北に半島状に垂れ下がり、途中で消滅するがこれを受ける形でY字形に西谷がながれていて、Y字形の東から流入している谷は細崩谷という。西谷は最終は、久保池に流入する。久保池の水は打上村(現在寝屋川市)の打上川を流れ、打上村の田畠をうるおしていて、久保池本体は打上村の飛び地になっている。従って日高山山系と西谷水系の山々は、立地上は星田村であるが、利水は打上村に属し、樹木の伐採、管理なども複雑な関係があったのか天保絵図では、逢坂道、ぼって谷付近から東側は、禿山、西側は繁山と記載されている。また人工的な工作物は西谷が最終的に久保池に流入する手前に堰提ができているぐらいで他には全くない。従って西谷周辺など、昔話に出てくる雰囲気が、タイムカプセルから出てきたようなところが随所で見られる。

西谷の入口

逢坂道と日高山

幅の広い逢坂道は,星田新池付近から始まる尾根道で、穏やかな昇りで、古くから使いこなされた歩き安い道である。逢坂道は、分水嶺となっており、東斜面はぼって谷でぼって川を通じて傍示川に流入するが、西斜面は西谷水系になっていて、最終打上川に流入している。逢坂道は、逢坂は、清滝街道の清滝峠付近のことで、逢坂に通ずる道は、絵図の国見峠のほか何本か外にもあった。日高山は、頂上で二六〇mで高さが一番高いところであるが、頂上付近の険しさは感じさせない。頂上を過ぎると いつのまにか下っていると いう雰囲気である。                                                                           

夫婦石

絵図の夫婦石の地名となった景色で、星田西の南公園あたりからの見れば中央の小高くなったところが夫にたとえられ、その左の中腹のコブが妻にたとえられ、この山の西側一帯の地名を夫婦石と呼ばれたもので、特にそこにそのような形の石があったわけではない。西星田の久保池から出ている放水路に架かっている橋は、夫婦石橋というが、この地名からきたものである。

土水小場 

ここの地形は、西谷筋と隣接して一本の尾根筋(夫婦石の尾根筋)が並んで走っているがその間隔が比較的長いところではお皿のような谷が作られ、穏やかな勾配で、変わったオープンスペースが何箇所かつくられている。この雰囲気を土水小場と称して地名(小字名)となったのであろう。最近は樹木が増えてきており、オープンスペースという点では景観上ではマイナスである。

鬢皿谷、深谷、長谷

絵図で逢坂道が坂登山の手前あたりから合峯嶺、狸原,茂草山、長尾と西谷から久保池に流入する谷に沿って山が並んでおり、この連続する山が分水嶺をつくって、西谷の谷水は南側の山側にとじこめ、山の麓側は鬢皿谷、深谷、長谷などが流れているが、いずれの谷も山頂からの山水は湧き水などで流入する一部の水を除き西谷で、これらの谷水の源流はこの分水嶺以下で 短い源流となっている。鬢皿谷は、傍示川に流れ、深谷は、大谷新池の源流であり、長谷は打上川に流れている。

府民の森星田園地・哮が峰・鮎返しの滝

府民の森星田園地は、昔の小字地名で大谷と南谷の両小字区でできているが、大谷は磐船神社からの管理道に沿った谷であり白竜の滝を下ったところで天野川に流入している。南谷はピトンの小屋付近を流れている谷筋をいい、大谷・南谷の両谷が

府民の森星田園地の頂上尾根筋 左に大谷の嶺から始り、小判の嶺、日南、哮峯と続いていて、この山の原型であろう。大谷ハイキングコ―スの古い標識がところどころで残されている・      

受け入れているそれぞれの水系の源流域が、それぞれの小字地域にほぼ一致している。普通山の形は主峰尾根筋が雨水の分水嶺となって尾根筋を中心に山の形がきまるが、府民の森は管理道が中心に道ができていて、管理道は必ずしも尾根筋につくられていない。人工的に作られた道であり、どちらかというと山の肩の部分に尾根筋よりも少し低いところに管理道がつくられているように見える。府

磐船神社からやまびこ広場に向かう管理道。道の右側の山の頂上尾根が大谷、南谷の境界であろう。      

民の森の尾根筋は、大谷の嶺、小判の嶺  日南、哮峯と続いているが、これが山の原型であろう。この尾根筋に沿って「大谷ハイキングコース」と書いた古い標識が残されている。なお、小判の嶺は、菖蒲の滝、妙見川、星田妙見からJR星田駅に通ずる星田園地の出入口(車両進入禁止のネット柵がある)のあるところである。小字の大谷、南谷への流入圏は、分水嶺を挟んで異なるので、それぞれ小字の大谷地区と南谷両地区の境界つま り分水嶺は、おおむね磐船神社からやまびこ広場まで続いている管理道の東側に連続している山の尾根筋(暗りの山)が分水嶺となっているのでそのあたりが境界であろう。なお、この場合、大谷の北側に南谷があるが、南谷は星田の南側にある谷、あるいは私市の南で天野川に流入している谷という意味の固有名称であ り、方位を示すものではない。便宜上、府民の森星田園地を水系が異なる旧小字の大谷地区と南谷地区に分ける。

ここでは、府民の森内の地名や谷の名称を各地の歴史性を尊重する意味から、明治の地図に記載がある部分は、すべて地図に転写し、そのまま採用し、それに従って記述することにする。

 大谷地区

せせらぎの道

中ノ谷に沿った谷沿い道である。終盤中ノ谷から別れ、飯森霊園出口につながり、また、まつかぜの道とも連結している。明治の地図には小屋口、奥小屋口と記載されており、このあたりは、石切場の作業場であったのであろう。ルートの入口と中程に図のような石切り場を象徴するような工作物板ベンチという二つの休憩所が造られている。

じょうりょくの道  こもれびの道

両道とも尾根筋やその傍に道を作って尾根歩きで比較的歩きやすい道であるが、じょうりょくの道は、最近の水害で一部崩壊箇所があり、通行禁止になっている。両道とも番田谷とまつかぜの道を結んでいる。

まつかぜの道。

やまびこ広場から飯森霊園出入口を結び、大谷地区の北部から西部に連なる四條畷市や旧近隣の小字との境界の尾根筋に近いところを結んでいる比較的平坦で、長い道である。高低差の近いところを這うように迂回しながら結んで道がつくられているため、距離が長くなっているが、山道というより散歩道に近い平坦な道である。

まつかぜの道は、やまびこ広場から直接でているが、管理道を少し南にくだったところ、目谷のところにある八つ橋からも入れる。

大岩

昔はこの岩に沿った谷沿い道を少し登り交差する尾根道を越して小松谷川の谷沿い道を下 れば廃小松寺の南の大門があった。最近はハンバーグ岩と呼ばれている

踏割石

大きな石が付近にごろごろしている。

南谷地区

星のブランコから南谷の谷筋を望む。

つつじの道、さえずりの道,おねすじの道、ぼうけんの道、らくようの道など南谷地区の道は、すべて管理道から南谷、ピトンの小屋に向かう比較的短い下り(南谷側からは登り。)の道である

歯朶谷とさえずりの道

おねすじの道と小判が谷

若林地区

ピトンの小屋の背後の山である。星田の 山は禿山が多く、明治の地図でも樹木林が少 ないが,星田妙見とこの若林地区だけが樹木山で描かれる。星田妙見は、縄文の森ともいわれ古くから保護されてきたのであろう。星田の山中の植樹は、明治中期頃に日露戦争祝勝記念で植樹されているが、若林地区は明治初期にすでに植樹が終わっている。

哮が峰と巖(岩)内道

哮が峰

星のブランコ

饒速日命(にぎはやひのみこと)が高天原の祖母にあたる天照大神の命を受け、神器をもって巌のような頑丈な舟に乗って哮が峰に降臨したという。(先代旧事本紀)

先代旧事本紀

序文に聖徳太子と蘇我馬子の勅撰と書かれていて古事記(七一二年)日本書紀(七二〇年)と並ぶ歴史書として尊重されていたが、内容的に後世のことを含んでいて江戸期に偽物とされたことがあるが序文の成立経過は問題があるが資料性は全く否定するものではない。内容的に成立は 平安初期とされ、その時期に各年代の資料を集めてつくられたもので、また記紀や当時の文献にはない独自の伝承や神名など新しい資料性のあるものがでてきたり、物部氏の祖先である饒速日尊に関する記述が多く見られるが、これらは現存しない物部氏の伝承や文献から引用されたものではないかと思われる。、記紀は天皇家の氏族伝承が中心であり。成立時の実力者である藤原氏が他の氏族を圧迫して仕上げられた経緯もあり。先代旧事本紀は、物部氏が一族の存在、天皇との関係、功績などで立場を顕揚しようとして策定されたものではないかともされている。この場合の作者は当時物部氏系で最も活躍していた興原敏久(明法博士)が挙げられている。(安本美典氏)

巖(岩)内道

哮が峰の南側に山肌に吸い付くようにそびえていた巨大な岩山 である。底部が洞窟になっていて、その洞窟が東の岩山から岩山の西のはずれまで続いていて通り抜けができた。大正末期に村が石材会社に売却し、石垣用石材に切り出され、地図に石切場と記載されていたが、その跡は現在のクライミングウオールとなっている。

哮ガ峰とクライミン グウオール(現在)

鮎返し滝

磐船神社の新トンネルの下流の天野川がかたかなのコの字形に流れを変えるところにある滝である。七mの一枚岩を流れ落ちる滝であり、さすがの鮎も引き返すことからの名である。昔雨乞いのため、獅子窟寺の賓頭盧仏 (びんづるさん)の顔に白粉を塗って滝のうえから釣り下げて 祈るという奇習があった。