星田の里歴史散歩

星田の里歴史散歩(古代から近世)

布懸(のうがけ)遺跡      旧石器時代

布懸遺跡は、旭小学校のすぐ南側のNTT星田住宅を建設するときの発掘調査で、一万五千年前の旧石器時代の石器一三〇点が見つかった。ここで発見された石器は、サヌカイト(讃岐石)で、原石を割ると割れ口が鋭い刃になるため、動物の皮の裁断、肉の分別などハサミや包丁の役割をし、また鏃として槍に用いるなど、古代人にとって欠かせないものであっ た。ここでは、神宮寺遺跡で見つかった石器に比べると、小型のナイフ形石器と、石器をつくる元になったとみられる石や、石を叩き割って石器に加工したときに出たと思われる小さな石の破片など原石に近いサヌカイトが多く見つかっていることから、ここは石器を作成する工場であったことが想定されている。布懸遺跡に接する交野三中の南門から高岡幼稚園に通ずる道は、「山の根の道」といってけもの道が起源であるとされている道で、山の麓を這うように連なっている古代からの各地を結ぶ広域路であるとされている。またサヌカイトの原石が発掘されるのは、近くでは二上山だけであって、その交易路の道ともいわれていて・交野地方の旧石器時代の遺跡は、藤坂宮山、津田三ツ池、神宮寺、星田布懸、打上、忍ヶ丘というふうに山根街道に沿って続いている。

旭縄文住居遺跡           縄文時代

星田新池は、明治四十二年から二年の歳月をかけて築造された。それまでは、星田山(星田新池の南にそびえている山で、頂上は馬が峯)を挟んでその山の東側を流れているなすび石の谷と西側を流れているぼっての谷が合流してぼって川となって現在の傍示川に合流していた。傍示川の上流は、正式には小松山を源流とした地獄谷川といったが、ぼって川と地獄谷川が合流した後の下流を傍示川と呼ばれた。星田新池ができる前のぼって川の終末は、旭の山という富士山の形をした大きな山で仕切られて壁をつくっていたが、星田新池の築造は、この山を取り崩して、その土を五~六十m近く上流側に運び、土手で積み上げられた。この星田新池の土手築造の土砂採取をしていたところで縄文住居遺跡を発見した。縄文中期(四千年程前)のもので、比較的川に近いところで、東西二十m、南北十mぐらいの川より二mほど高い場所で、十数個の竪穴式住居跡が発見された。また木炭に混ざって小鳥や獣類の骨が発見された。同時に中国の二千年前の「貨泉」が貝殻に入って発見された。星田新池周辺から縄文時代の土器や石器など数多く見付かっているが、その当時のものは大阪市立博物館に寄贈されている。星田新池周辺の出土品で珍しいもので、素焼きの底の尖った小さな土器に入った数十枚の和同開珎が星田新池の南側の早刈の丸く半島状に突き出たところで発見されたことがある。

弥生遺跡     弥生時代

今から二三〇〇~一七〇〇年前の六〇〇年間の遺跡である。農耕が始まったが、人工的な灌漑などの水利ではなく自然にある水を利用することから始まった。星田の遺跡は、坊龍、中水道、森の木、星の森、新宮山下、大谷新池など水利に比較的恵まれたところで随所に見られる。その頃、中国では統一国家が既にできていて、鉄器や青銅器を使っており、わが国とのカルチャーギャップは、大きいが人が住んでいたり稲作が行われているところではサヌカイト石器や土器などはかなり使われていたとされている。

新宮山下遺跡  星田神社、星田寺(しょうでんじ)のある台地と新宮山(現在、星田公園)に挟まれた中川の水の豊富な谷筋は、最も早い時期に稲作が行われていたとされていたが、そのとおり、石鏃二点と土器片一点が発掘された。

(ぼう)(りょう)遺跡(中期末~後期)土器片は少量であるが、石器は、すべてサヌカイトからできており、打製の石鏃および石錐がある。弥生時代には珍しく無柄鏃が多い。また柳葉型や紡錘型もあり、すべて粗製であるが、大量である。「稲作地としては広くて、最適地であり、他部族と絶えず耕作地の争奪戦が繰り返され、そのために粗製の大量の石鏃が使われた。」といわれている。

(たける)(みね)と降臨伝説

府民の森星田園地の星のブランコの東側の哮が峰は、饒速(にぎはや)(ひの)(みこと)が高天原の天照大神の命を受け、神器を持って、磐のような頑丈な舟に乗って降臨し、移住した所とされている。(平安時代の先代旧事本紀=せんだいくじほんき)。この磐の舟は、磐船神社のご神体の巨石である。饒速日命は、物部氏の祖先で、物部一族は、交野一帯の稲作文化の普及・発展に大きな役割をはたした。饒速日命は磐船神社の祭神であったが平安期からは、祭神は、住吉四神に変わっている。写真は、星のブランコの右前方に高くそびえている峰が哮が峰。先代旧事本紀は、序文に聖徳太子と蘇我馬子の勅撰と書かれていて古事記(七一二年)日本書紀(七二〇年)と並ぶ歴史書として尊重されていたが、内容的に後世のことを含んでいて江戸期に偽物とされたことがある。序文の聖徳太子などの勅撰の成立経過の書き方は問題があるにしても資料性は全く否定するものではないとされている。内容的に成立は平安初期とされ、その時期に各年代の資料を集めてつくられたもので、また記紀や当時の文献にはない独自の伝承や神名など新しい資料性のあるものがでてきたり、物部氏の祖先である饒速日尊に関する記述が多く見られる。これらは現存しない物部氏の伝承や文献から引用されたものではないかと思われる。記紀は天皇家の氏族伝承が中心であり、成立時の実力者である藤原氏が他の氏族を圧迫して仕上げられた経緯もあり、先代旧事本紀は、物部氏が一族の存在、天皇との関係、功績などで立場を顕揚しようとして策定されたものではないかともされている。この場合の作者は当時物部氏系で最も活躍していた興原敏久(明法博士)が挙げられている。(安本美典氏)

三宅山(天皇の米蔵の屯倉=みやけ) 古墳時代

敏達天皇(五七二年~)の頃蘇我馬子と物部守屋が対立して、互いに勢力を争っていたが、皇后が亡くなり、蘇我馬子は、自分の姪で欽明天皇の皇女である豊御食炊屋(とよみけかしや)(ひめ)を新皇后にすることに成功した。物部守屋は、その対抗手段として、天皇が新皇后のため御領地を求めていたことから、祖先以来経営になる沃野で土地、住民も良い河内平野の土地を提供した(古事記日本書紀)。これを私部(きさいべ)といい、茄子作、郡津、私部、寺、森、私市、星田の交野の一、四八八町歩の地を含んでいた。その後皇后が推古天皇となったため皇后の御料地は、天皇の御料地(三宅山といった)にもなり、私部が三宅山にもなった。星田の山中に八四五年開かれた小松寺(廃寺)が創建されたとき、三宅山荒山寺と云われたことから、屯倉(みやけ)は、星田にあったなど諸説がある。また星田などの山中も領域に含まれているが、三宅山荒山寺がはげ山であったごとく当時としては、樹木は貴重な材木や燃料資源であったことから水田農耕地と同じく山地も貴重な扱いを受けたのだろう。

妙見山古墳 古墳時代

妙見山から東に延びていた峰続きの最高地点(標高一六二m)で現在の妙見坂東住宅の宅地開発中に発見された。(昭和四三年)東に天野川と磐船街道、北に交野が原、西に二十m低いところに小松神社(妙見さん)をそれぞれ見下ろし、遠くに淀川や北摂の山々が眺められる眺望抜群の地にあった。発見された当時、既に半分は破壊や発掘が行われていたが、勾玉、ヒスイなどの玉類や鉄鏃や刀などの鉄器と遺物に付着した朱などが発見された。幅は、四m程度、残存長も四mぐらいで、破壊されている分も含めて七mぐらいではなかろうか、正式な長さは判らない。古墳は、四世紀中頃の造営と認められ、天野川、磐船街道を支配していた交野物部氏の首長を葬ったものであるといわれている。

星田の村落の形成    奈良時代~

東の村と西の村

田のことを西は干(乾)田、東は条理田と言われる。これは村落の中央を流れる中川の東側の東の村と中川の西側の西の村では異なった発展をとげてきた。東の村では、天野川の源流が生駒山の中腹から発していて水量が豊富で、磐船渓谷にそって徐々に地盤の高度を落として、ゆったりとした豊 富な水を湛えて交野枚方地方に稲作適地をもたらした。特に妙見川と天野川が合流点以南、以西は両川などの扇状低地、後背湿地であり最も恵まれた有数の良水田であった。弥生遺跡も発掘されており弥生時代からすでに稲作が行われていたとされている。また森の木、天野川(小字名)なども奈良期の大化の改新では条理制が施行されていて古くからの水田適地であった。他方中川以西の西の村については、星田の山は、現在は、樹木が繁り南星台の大きな砂防ダムや星田新池の築造などで、傍示川や妙見川は余裕のある流れを保っているが、昔は短い流域で高低差が激しい地形と山は、はげ山が多く、花崗岩からできた岩石は、風化が激しく、土砂の流出も多いため、傍示川や妙見川では、天井川をつくったり、降雨時にはしばしば氾濫を起こしてきた。不おし(傍示)川あれや東(妙見)川あれという洪水被害地が起こりやすく、また日照りが続けば、すぐに川は干しあがってしまうので、西の村の地は、農作特に稲作には不適な地であって、そのため牧場に使われてきた。

上の図は、交野市史が描いている模擬図であるが中川を挟んで東側は大化の改新で行われた条里制がしかれ班田収授が行われ、中川から西は星田牧で牧場につかわれていたことを描いている。

岩清水八幡宮の荘園になったかつての三宅郷(屯倉)  平安時代~

天皇の御領地であった三宅郷(屯倉)は、大化の改新(六四五年)によって、日本国中全ての土地は、天皇家の土地という事になり、天皇の御料地というのは、事実上消滅していたが、その後荘園制度ができて、再び私領化が進んでいった。天暦三年(九四九年)かっての三宅郷は、茄子作、郡津、私部、寺、森、私市、星田の範囲で、岩清水八幡宮の荘園として復活した。星田などの山地も荘園として交野郡司の所管となって社領となった

星田牧と興福寺の円成院の荘園        平安時代

 平安時代の末期に、星田牧では飼育していた牛馬が病気で大量に死んだが、その頃、淀川の大洪水があり、淀川の向こうの三島郡上牧の為禰牧(いねのまき)の牛馬を移して飼育することもあって、星田牧は、この為禰牧の傘下の福牧に属していたが、税の取立てが厳しく、属地扱いされることなどから奈良興福寺別院円成院領に寄進し、その荘園として庇護を受けることとなった。

荘園の境界傍示川

傍示川はこの時に荘園境界に用いられたのでこのような名前がついたとされている。傍示とは、もともと目印のことで、荘園の境界は、石、札などが立てられたが、星田牧の荘園の場合、川を境界とされ、それで傍示川と呼ばれた。しかしこの傍示川は、別に詳述するが、現在の傍示川ではなく、東に寄った高岡山の東の現在の星田大池の付近を流れていた当時の傍示川であったろう。現在の傍示川は、星田大池を築造するための敷地に変え、降雨時大量に発生する雨水を下流に放流するためのバイパス川として新規に掘られたもので、元禄十年星田村絵図の記載から江戸期元禄時代は、高岡山の東を流れて

いたことが解釈できる。

東の村の中心、紐谷、中川周辺

弥生遺跡が発掘された星の森や現在の傍示川周辺の御農、布懸、玉江などの西側の星田牧であった台地でもその中で低湿地を探し、水溜り農業の形で可能な限りの水田開発

は、当然行われていたことであろうが、紐谷や白水は、星田の山中の豊富な水を流している傍示川や妙見川とは、楯石、平野という丘陵地を挟んで一種の壁をつくっていて、その間にできた谷間である。これらの谷は、小さくて、浅いため、洪水を起こす心配が少なく、そのうえ、水が湧水であるためきれいである。この谷筋は管理がしやすく、集落を形成するのにも、水田を営むのにも非常に好い条件をそなえていたと思われる。だからこの谷が開けるところに星田の村が最終的に立地したということである。紐谷の下流が全現堂池であり、中川であって、中川沿いが開けていった。御農、布懸、玉江から現在のJR星田駅周辺である六路などは、標高にして五十mを越え、中川の水位は降雨時の嵩 上げ水位を加えてもせいぜい四十m台であり、物理的に流れてこない。これらの地域に水田が普及するためには、星田大池の築造以後であり、この池は高岡、楯石、梶が坂の高度の高いところに七十m以上の高さの堤防から放流すると、給水域は、広まり、また池を大きくし貯水能力を高めることにより、従来の湧水中心から山中の豊富な水を直接受け入れられるようになり星田大池の完成をまって大規 模な稲作が行われるようになったのである。

新田開発と新田集落

妙見川の左岸に沿って垣内、上垣内、外殿垣内と垣内のつく地名が続く。垣内とは、開墾する場合にする縄張りや垣を結って囲うことである。いわば新しい開拓地のことである。このように村人の努力と灌漑システムの進歩によって、水田や畑作の開拓が南に進んでいって、さらに中川の右岸にあたる中水道に進んだ。冨士ヶ尾(小字名)は、扇状地ではなく、丘陵地の先端であり、棚田の形で江戸時代の元禄期には水田が作られている。このように農耕地の開墾、開拓が進んでいくと村が大きくなり、住居ごと移住する新田集落が必要になる。其村は、星田の外の村として、妙見川の堤防あたりに作られた村である。別説として、星田牧を興福寺の円成院の荘園として寄進した時、荘園を耕作する農民が移り住んだ村のことという説もある。外殿垣内の外殿の語源については、別項の徳川家康出陣の後、大坂方を破ったことを記念して垣内が造られたが、それを外殿垣内と名づけ「とおのかいと」と呼んだ。

星田村落の中心

慈光寺の東側の道が中川に架かっている橋をはすかい橋といったが、この辺におふれなどの掲示板があったので札場ともいった。また、ここに戸長役場があって、村の政治の中心でもあった。名所記が描く中川に架かるはすかい橋。前方の塔のようなものにおふれなどが貼られた。橋の前方は、西の村の道で、樹木は、慈光寺のもの。ここを中心に北村、艮(うしとら)村、東村、坤(ひつじさる)村、西

村、乾(いぬい)村としてその方位が村の名前についている。しかし南村はない。星田の

氏神である星田神社、星田寺があるところが南村にあたるが、神社、寺で集落形成していなかったから向井といった(お向いの意)。星田の場合、昔は、村人は村の中に集中して住み、外部からは人を寄せ付けず、町づくりは、一種の迷路のように、細い道路、T字路やカギ型の辻、曲がった道などで村の結束と敵の侵入防止を考え、お城のような 道 づ く り 町 づ く り を し て い る 。この中川周辺の村の中心部の村落の形成の時期については、乾の里(乾村)、野辺の里(千原)、金堀の里(梶ヶ坂)などの古い地名の呼び方が残っている。~の里は、奈良期の集落に使われた呼び方であり、ここらでは、すでに奈良期に集落ができていたとされる。(西井氏解説。)

小松寺(こまつじ。廃寺)     平安~江戸時代

創建は、空海、伝教大師による庶民信仰が始まって(八百三年)少し経った八百四十五年に、四條畷市との境界に近い、小松の山中で、当時、星田の山一帯は、樹木が一本もない荒涼たる岩砂山であったことから荒山寺と名づけて建てた寺が始まりで、宗旨は、真

言宗東寺派で、その概要、規模は、金堂(本尊弥勒薩。)根本草堂(十一面観音ー現在星田寺にある交野市指定文化財。)三重の塔、宝蔵、経蔵、講堂、鐘楼、食堂、毘沙門堂南の大門(正門)、西の大門、北の小門、坊舎六七宇僧衆一二

〇人、児童(小僧)三八人,大小二六谷、大道三、小道五と言う大規模なものであった。(続群書類従、小松寺縁起)。一方で浄土宗など鎌倉仏教が盛んになり、この寺は、人里遠いところに立地しているため、宗教としては衰退していくが、戦国時代に入ると、別名を小松城ともいわれ、山城としての軍事的要塞の機能を高めていった。そして江戸時代の元禄期に廃寺となった。、小松の地は,北寄りの尾根筋(馬木の嶺から北谷)を残して、ゴルフ場(ゴルフクラブ四條畷)の一部となっている。小松寺の遺跡は現在その尾根筋にある北の小門跡だけであり(下の写真)、寺の主要部分があった小松山は、その尾根筋からコース越しに見えるだけである。なお、小松山の東側にあたる、

ゴルフ場9番コースのティグラウンドのそばに、小松寺之跡の碑が建っている。

戦乱と星田   南北朝~戦国~安土桃山

 星田は、南北朝時代には、河内は、南朝方の拠点であり、自身が戦場になり、頻繁に戦が行われた。群雄割拠、下克上の戦国時代になると、河内守護代で私部城主の安見直政が地方豪族として、力をもたげ、また河内国守護職畠山高政,飯盛城主の三好長慶などの地元の豪勇達が長期にわたり、繰り返して戦を行い、地元の郷士,武士、農民を戦に巻き込んでいった。また、山中の小松寺(廃寺)は、鎌倉時代以降は、山城の性格を強めていき、軍事拠点ともなっていった。明智光秀が織田信長に謀反を起こした本能寺の変の時は、徳川家康が丁度堺にいて,潜みの藪で星田の歴史に登場し、豊臣時代の大坂夏の陣では、星田が出陣の地になって、戦の舞台になっている。このような度重なる戦の歴史を経てきた、星田の村人は、結束を強め、村全体が砦であるかのような町づくりをしてきた

新宮山(八幡宮、愛染律院と徳川家康旗掛松の碑)鎌倉時代~

現在星田公園になっている新宮山は、南北二段になっており、南の高いところは、星田を含む三宅郷が岩清水八幡宮の荘園になった後、鎌倉時代中期頃に荘園の鎮守のため、

新宮山八幡宮が岩清水八幡宮から分霊して造られた。北の低いところには神宮寺である

愛染律院が建っていた。図画

は星田名所記が描いている前方の徳川家康旗掛け松とその後方の新宮山八幡宮、および愛染律院の両社寺。いずれも明治初期に廃社、廃寺となって、現在石塔(一三〇九年)、宝篋印塔(一五四八年)が残っている。また元和元年(一六一五年)の大阪夏の陣で徳川家康が松の大木に軍旗を掲げた「旗掛松」は、現在枯れてないが、「旗掛松の碑」が建っている。写真は鳥居の背後の石塔と宝篋印塔

南の庄と北の庄           鎌倉、室町時代~

星田の古い村落は、南寄りの山手と北よりの稲作地の2つに分かれ、南北2つの庄を作っていて、両者にそれぞれ領家がいた。前者の山側の領家は、星田神社周辺の和田家(後に和久田と改姓。東和久田家)であり、後者の北の庄の領家は、平井家で、広範な稲作地帯を領地に納めていた。和田家は、鎌倉末期には、山中の小松寺(廃寺)の住職や妙見宮の別当職などを一門から送るなど、その力を強め、平井家は、もともと坊龍あたりの稲田は、八幡宮の御料地であり、年貢の取立てや、自身が八幡宮寺領荘園の荘官や新宮山八幡宮の別当職を兼ねていた。南北朝時代は、河内は南朝方の拠点であり、双方南朝方で戦っている。

降星伝説と八丁三所  (星田妙見、光林寺、星の森)平安時代

平安朝の嵯峨天皇の弘仁年間(八一〇~八二四)に、弘法大師空海上人が、河内の国私市の観音寺で虚空蔵(こくうぞう)菩薩(ぼさつ)求門(ぐもんじ)の法を修められた。すると、その法力によって、その夜、山の手に佛眼佛母の光明が輝いた。そこで、夜明けになってから山に登り、,獅子窟寺山の吉祥院にある岩屋に入って仏眼尊の秘法を唱なえた。すると、七曜の星が降り、それが三つに分かれて落ちたという。この霊岩に七曜星の影向(ようごうー神や仏の姿を現すこと)せられるのを拝まされて、妙見宮を七曜星をまつる霊場とされたと伝えられている。七曜星とは北斗七星のことであり、北辰星というのは、北極星である。北辰星について、桓武天皇や嵯峨天皇が一般民衆が北辰祭を行うことを禁止する令を出している。弘法大師は、禁止されていない北斗七星を祀ったのであろう。真言宗の北斗七星の信仰は、人間は、その生まれ年によって七星のいずれかに属しているので、その属性を祭れば、災いを避けて幸福を求める現世利益を受けるとされている。(かるた「星田妙見宮」より。)

八丁三所  星が降った星田妙見、 光林寺と星の森は、丁度三角形の配置にあり、それぞれの距離が八丁(900m)であることをいう。

 妙見山南の墓地      鎌倉~室町時代

星田妙見(小松神社)の裏参道入口のふもとにある木造瓦葺のお堂の中にある。古いもので鎌倉時代、室町時代までであるが、江戸時代の新しいものはない。種類は 五輪塔,一石五輪塔、舟型板碑等立派なものが多く、その数は、二〇〇を数える。当時の庶民の経済力では建てられるものではない。昔山中の四條畷市との境界に近いところに、西暦八四五年創建の小松寺があった。続群書類従の小松寺縁起によると、坊舎六〇宇,僧衆一二〇人、児童三八人の大寺院であり、その後衰微していき、江戸元禄期に廃寺となった寺であり、その上級の僧の墓であろう。この墓は、果樹園にするべくこの土地を買った人が耕してみると地中から石塔類がでてきた。平地に建てられていたものが、過去に流出土砂で埋まってしまったものである。その後延命地蔵として愛護を続けておられるが、現在のお堂は、昭和五八年に立て替えられた。

(心斎橋錫半社長等協賛者)

伝徳川家康ひそみの藪      安土桃山時代

妙見坂小学校東南の一角(フェンスをして保存)天正一〇年(一五八二年)六月二日の本能寺の変の時、堺に滞在の徳川家康は、急遽本国三河に帰るべく、二日の深夜、この竹薮に潜んで、星田から選出の二人の農民の道案内で、抜け道を通って無事帰還することができたと伝承されている。

徳川家康宿陣の地     江戸時代

元和元年〔一六一五年)五月五日大坂城攻めのため、徳川家康は、午前九時京都を進発し、午後三時星田の里正〔村の長)平井三郎右衛門清貞宅に宿陣した。一丁四方ある屋敷内の北の方にある建物で、五間四方を高く上げた奥書院を家康のために用意した。平井家では、屋敷を囲む堀でとれた鯉を料理して差し出した。二代将軍秀忠は、先に四条畷市岡山で陣を構えていたが、家康が到着するや、陣屋で秀忠 本多正信、藤堂高虎、土井利勝、安藤重信等と軍略会議を行った。東軍一六万人のうち、家康の手兵一万五千人は、星田から打上に野営したが、その夜は、豪雨があり、夜襲もあろうかと警戒した。家康の旗印の白旗は、新宮山上にあった松に掲げられた。翌六日大坂方が八尾、久宝寺で討って出たので、午前一〇時に出陣していった。

所記が描く宿営地平井家の記念石碑と家康宿営の書院の間を模した石棚

徳川家康の旗印の白旗 (大阪城天守閣資料)

 星田大池と中川、

星田山は、この山を挟んで東西に流れているなすび石の谷とぼって谷水は合流してぼって川となり、また地獄谷川とぼって川は、合流して傍示川となってすべて麓側に流れているため、降雨時における河川の水量は多い。しかし各川谷の流域の長さは1000m

内外と短かく、頂上と麓との間の落差は200m近くあり、しかも山中は花崗岩が多く、土砂の流出が激しいため天井川をつくるなど、山中の豊富な雨水を直接利用することは困難で あった。中川は、これらの山中からの河川水を直接受け入れるのではなく妙見川と地獄谷川に挟まれた窪地状にできた紐谷、楯石、平野、初項など狭い範囲の雨水を源流とし、山中の水は、せいぜい伏流水や湧き水で流入する川であって、流量的には穏やかな反面水量が恵まれないことから、流域に沿って上の池、中の池、今池、妙音池などで貯水して水田地帯に送水していたが、中川からの送水は降雨時の水位の上昇を加味しても、星田村の集落の標高四〇m位で地域的に限界があったが、星田大池は江戸時代の寛永十四年(千六百九十七年)頃には一部開通していると思われるが、この池は高岡山、楯石、梶が坂の山中の六~七〇mの高さのところに土手を造って、自然の勾配を利用して送水しようとするもので現在のJR星田駅周辺は標高で五十m近い高さがあり、その地帯を越して北星田地域をはじめ全村に渡って物理的に供給が可能となるとともに池の大きさは最大六ヘクタール(甲子園球場の敷地の1.5倍)になり、星田の山中の豊富な山水の直接受け入れ貯留し、調整池としての能力も高め、量的にも機能的にも高めて、用水供給を行なうことができるようになった。